191話延長戦「悲しみにつばを吐け」
昨日のブログのあとに気づいた事があったので、新たに補足。
よく考えたら尾形がキロちゃんに話を持ちかけて同行するまでの経緯がはっきりしてないんだよね。
パルチザンだってことは鶴見中尉から聞かされていたとして、それを脅しの手段として使ったのか。その話をするために、二人きりで接触する機会が必然だったわけで。
それがリパさんに不殺の心情を確かめるためだとしたら。…って考えても、それだけじゃキロちゃんに同行する理由としては薄い気がする。
なにより、最初に宿舎から脱走した時点で、リパさんに不殺の信条があったかどうかなど確かめようがない。
だとすれば、造反組を装い、二階堂を率いて脱走。そしてそれを密告すると恐れた谷垣を必要以上に警戒している点からして、鶴見中尉に自分の行動がバレることが、尾形にとって絶対避けねばならない。
つまり、予想だが、やはり尾形は誰かの差し金で動いたことになる。
ここでそれを匂わせたのが、菊田特務曹長だ。
「私の様子を見にきたのか」
これは怪我の具合を心配しての、二階堂と宇佐美を寄越したわけではないと示唆している発言に思える。
言わば、菊田曹長が鶴見中尉の目の届かないところで動いているかもしれないという不穏への警戒。自分が警戒されるに値する行動をとっていると自覚しているのではないかと。
その計画(があればの話だが)に一役かっていたのが尾形だったという筋も可能性として無くはないと思う。
いやまだ菊田曹長が反鶴見派と決まったわけではない。
「様子を見にくる」ということは、もしかすると鶴見中尉の計画の一旦を担っていて、その進捗状況を伺いに来たという線も考えられる。
そして尾形はまだ重要な秘密を握っている。
鶴見中尉が花沢中将の自刃を細工したことだ。
中尉は以前、月島と鯉登の前でしれっと花沢中将の自刃の話をした事があった。
第7師団であれが自刃ではないと知っているのは、鶴見中尉と尾形だけである。
自刃という汚名を着せられ結束を強くした結果が、実は仕組まれていたことだた知った月島たちはどう思うのだろうか。
しかし尾形がその事を話したとして、今は信用してもらえないだろう。
尾形への信用が回復することは薄いと思うので、鶴見中尉への不信感が芽生えたあたりでバラすのだろうか。
この役割がまだ残っているので、退場することはないと思いたい。
で、昨日1ページ目を読み返してたら、白石の弔い方がなんとも粋だということに気づく。
かつてあった青春のほんの束の間の時間。アムール川で見た夕陽の美しさ(朝日かもしれんけど)そこに春が来たら帰るこができるように。
家族が待つ北海道へ戻ることができなくても、せめて思い入れのあるアムール川を渡り、役目を終えて天に帰る。
キロちゃんに教わったことは意図せずアイヌ民族の風習に習う形になったこと。これこそが文化の継承ではないかと思う。
たとえそれが多民族の人間であったとしても。誰が文化を大切にし、それを守るかなんて大事ではないのかもしれない。
大切なのは、その民族の文化が存在したという事実を、後の人間が忘れずにいることかもしれない。
人生には必ず「さよなら」が訪れる。
自分が別れを告げる時、告げられる時。人生は生まれた瞬間に「さよなら」の連続が待ち受けている。避けて通れはしない別れ。その悲しみにつばを吐き、抗えない別れを悔しさに変えることで、忘れずにいられることができるのかもしれない。
191話「で、結局尾形ってなにしたかったん?」
ここにきてそのタイトルに戻るか?
しかもこの内容で?尾形、今週尻餅ついただけじゃん。
いやまあそうは言っても、このブログを始めたきっかけが、そもそも尾形の目的はなんなのかについてだから、毎週そこを掘り下げていくしかないんだよ。
とは言っても、尾形どころじゃない展開。
まさに杉元の背中から落とされたあのコマのような。
いやすまん尾形、今は正直おまえのことに構っている場合じゃないんだ。
そうだよ。キロちゃんだよ。
白石がキロちゃんのことを弔ってくれたのがせめてもの救いだ。
そうね、真面目すぎたのよね。何に関しても。
思えば競馬場での出来事だって、真面目すぎるから勝っちゃったわけでしょ。そのおかげであの八百長に絡んでた二人は親分に殺されちゃったわけで。
ほんとうはさ、皇帝暗殺とか革命とかやりたくなかったのかもしれない。いやわかんないけど。
でも真面目すぎるがゆえに、ここで俺が動かなければ皆が、アイヌ民族が途絶えてしまう。っていう、正義感で動いていたのかもしれない。
もしかすると、その実直さがウイルクと違えることになったきっかけかもしれないね。
刺青人皮について、「あんなことができるのはウイルクしかいない」って言ってた。「あんなこと」とはつまり、あまり賞賛しているような言い方ではないと思う。
あんな、囚人に刺青を彫り、それを剥いでつなぎ合わせることで完成する暗号。
たしかに「あんなこと」だ。プリズンブレイクでだって、あそこまでしてなかったよ。むしろ自分の身体に彫ってたよ。
目的のためなら冷徹になれる、情は命取りになると狼から教わったウイルクと、正義感の強いキロランケ。
キロちゃんの本当の名前、ユルバルスが意味する「虎」が、どんな生態なのかはよくわからないが、狼と虎。きっと似ているところもあれば、真逆なところもあったのだろう。
だいたいにして、革命家をやる人って少なからず常人よりも正義感や思い込みや信念やらが強い人で、時代背景もあるだろうけど、私が今何かの活動ができるかって聞かれたら、絶対やりたくないって答えるよ。
まあそういう、想いが強ければ強いほど、意見がぶつかった時には互いに譲ることもできないんだと思う。
キロちゃんへの悲しみもそこそこに、金カムのザンギエフことガンソクさん再登場✩
めんどくさいけど、めっちゃ頼りになるダブラリおじさん。
そしてようやく舞台が北海道に戻るわけだが、あの洋画に必ず出てくるようなニューフェイスはなんだ?
あれこそCV.ツダケンじゃねーか(そこか?)
それよりたぶん今、物語の七合目あたりだと思うのだが、ここにきて重要なニューフェイスをぶっこんでくるってっことは、私の予感だと、尾形はこの物語で完全に用済みになってしまったんじゃないかという不安。
いやだって、今まであんな不穏な人物って、尾形の立ち位置だったわけじゃん。
タイプはまったく違うけど「こいつ何考えてんだ?」系のキャラの金カムにおける代表は尾形だった。
療養もあるししばらくは出番はないだろうと思っていたが、もしかしてもう最終回あたりまでないのか。
そもそも尾形がこの金塊争奪戦に参加していた理由も、不殺の信条を汚すためっていうのではっきりしちゃったし、そして杉元によってリパさんの不殺が守られた。っていう二人の再会のための噛ませ犬だったのかよ!!!って・・元々二人を引き離したのが尾形だった。
あの菊田さんは何者なのかとか、そういう考査は歴史に詳しくないのでしないけど、打たせ湯オナニーしてる奴、いるんだろうなーって思いました。
初登場でちんぽの陰影で圧倒させるキャラってすげーな!
190話「何者にもなれなかったあなた達へ」
なんなんだあの死闘…。全員チートすぎる…。
ファンタジー寄りの漫画だったらこういう展開は全然あるけど、金カムはもう少し現実的というかほんとうにただの人間として見てたので、え?こんなに傷を負っててもまだ動けるの!?
というのが序盤の正直な感想。
でもまあ、先週、卒塔婆作るかなどと話してたのに、全員無事でなによりだ。
鯉登の軍刀に閃光が走る。
キロちゃんの最後の悪あがきを制し、部下たちを守った。この鯉登の意地が、これまで割とギャグ要因として扱われてきた鯉登の見せ場だったと思う。決してサーカスではないと。いや、サーカスもよかったけど。
さてキロちゃん。
もう革命家でもテロリストでもない。
手負いの猛獣にされてしまった。
彼は最期に野生の虎になった。
しかしアシリパの登場で、視点が反転する。
誰が敵で誰が味方なのか。そんな役割はこの漫画にははじめから存在していなかったと思い出させる。
『天から役目なしに降ろされたものはない』
これは完全な私の主観なんだが、そもそも人間が生まれてきた意味などないと思ってる。
分子やら素粒子やらの偶然の結びつきが重なり、この世に生をもたらされた。
本人の意思など無関係に。それゆえにこの理不尽さに抗うために必要だったのが「生まれてきた意味」という、理由なんだと思う。
大昔からの伝承などは、願いであり処世術なんだと思う。
生まれてきた意味、役割があると信じていなければ、自分の意思の外で作られた「自分」という存在があやふやになってしまうからではないかと。
結局のところ、キロちゃんは目的は最後まで果たせなかったが、アシリパがこの旅で金塊にまつわる鍵やアチャの真意を思い出せたのなら、無駄ではなかったと。アシリパを杉元から引き離し、ウイルクの足跡を辿ることで、その目的はアシリパに引き継がれた。
私はこれまでアシリパは、大人達が持つそれぞれの信念のために振り回されているように見えていた。
だが、これはあくまでアシリパの意思があっての行動なんだと気付かされる。
ただ金塊という莫大な資金を得たいがための大人達は、むしろアイヌ民族の存続に群がっているだけなのではと。
人の意思が複雑に絡まりあう中で、彼女はアイヌのジャンヌダルクになることを、自ら買って出る覚悟を身につけたのかもしれない。
明日へ。受け継がれた未来がどうこの物語を紡ぎ、そして大人達はどこを目指すのか。
ここでアシリパと先遣隊が合流したのなら、チームは再編成する必要が出てきた。
さて、アシリパにチタタプしてヒンナヒンナしてほしいと訴えた杉元は、このアシリパの決断をどう捉えるのか。
そして軍曹たちは金塊の鍵を思い出したアシリパを中尉の元へ連れて行かねばならない。谷垣はアシリパをフチの元へ連れて帰りたい。
とりあえず君ら腹減ってるだろうから、1回ごはんでも食べながらゆっくり考えなよ。
キロちゃんの回想シーンでけっこう無駄なことしてたなと言ったが、その無駄なこともずっとテロリストしての逼迫した人生のつかの間の良い思い出になればいいと思う。
リパさんもね、札束握りしめて楽しそうにしてたし(ていうか絶対リパさんが、おもしろそうだからおまえら出ろ!って言ったよね)
尾形はやっぱ接近戦には向かないとわかったし。裸になるとドヤる君はなんなんだ。確かにいい身体してるけど。
陰影でも陰毛でも構わない。あの眉毛から想像するに、絶対尾形、陰毛濃い方だろ?と私は信じてるから。
■
今日は本誌の感想でも尾形の考査でもなんでもない。
ただの二次創作に対する、不定期に浮かび上がる自問。つまらない独白だ。
そもそも私は5年?6年?くらい、創作コスプレの世界にいた。
きっかけは「ちやほやされてぇ」
たぶんそれだっけだったかもしれない。
当時はまだ露出の多い写真をアップする人が少なかった。
本格的に版権コスプレをする経済的な余裕も技量を身につける覚悟もなかった私は、軽率にTwitterで評価を得られる露出を選んだのだ。
身体に自信があるわけではなかった。
なので自信のない部分は隠す、鍛えてどうにかなる部分はアップする。
そのうち色んな衣装で、オリジナルの世界観をイメージし、写真に収めるようになった。
まだそれほど人が手をつけていなかった、ガスマスクと露出の多い衣装というカテゴリーを作り、競技人口の少ない土俵に上がれば、必然的に私はそのカテゴリーでは上位に立てると思っていた。
とても浅はかだ。
しかし自分の作品は好きだった。
自分の好みを好きなように詰め込んでいる。
風俗店の広告のような、大衆的な「エロい」よりも、格ゲー女キャラに憧れていたのかもしれない。そういう方向性で被写体活動を続けてきた。
当然だが、露出をしていればTwitterで簡単に評価がつく。これは肌色面積に対する脊髄反射だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
だが「いいね」を簡単に得られて喜んでいた自分に、冷めてしまった。
そんな、通りすがりの風景に少しの感情の動きを得ることでは、承認欲求が満たされなくなった。
数ヶ月、露出をすることを封じた。
その間も被写体として、オリジナルのコスプレの写真をアップしていたが、理由無く露出を封印したことで、当たり前のようにフォロワーが減っていった。
だが私はそれでよかった。
露出を一時的にやめた私を、フォローし続けてくれる人達はどんな人なのか。そこに興味があったからだ。
そういう経緯を経て、今度は二次創作の世界に10年ぶりくらいに戻ってきた。
同じ土俵には何人もの創作者がいる世界に。別に競い合う場所でもないのに、SNSの発達により、簡単に優劣の差を見せつけられる。
圧倒的な人気作家と同じ場所で、自分の作品を公開する意味はあるのか?と考えるようになった。
どうしても書きたいものがある。
そうやって戻ってきた。創作することがどういう形であれ、私は好きなのだろう。
だが二次創作の世界は、オリジナルよりも常に比較できる要素が多い。
同じカップリングというラインに立った時点で、それは比較要素になる。
他人と比べることに、なんの意味もないことはわかっている。しかしどうしても、可視化された評価は目に入ってしまう。
わかりやすい評価、目に見える評価は嬉しい反面、恐ろしい。
それでも書くこと、創ることをやめられずにいる。
自分にも人並にできることがあると証明したいのかもしれない。
何をやっても人並み以下の能力しか持たない私にも、人並みにできるものがあると、教えてやりたいのかもしれない。せめて人でいたいという、悪あがきのようにも思える。
そのためのツールとして創作をしているのなら、今すぐ出ていけと言われるだろう。
でもどうやったって、頭の中に湧いてくるものを、表現し、残すことが止められないのだ。どうしようもなく。
そして今まで私は大衆受けから逃げて、競技人口の少ないニッチな世界を求めてきたじゃないか。
それは二次創作だからと言って、覆る趣向ではないだろう。
誰もやったことのない作品を。自分が唯一無二の存在になりたいと、カメラの前に立ってきたのではないか。
だったらそうやって創ってきた作品に、少ないながらの評価があることは、稀有で誇らしいと思わなければいけないのだと。
どうやったって私は、たくさんの人が求めるものを創ることができない。いやたぶん、したくはないのだろう。
商業活動ならば、その考えは通用しない。
ならばもういっそ、自分のどう足掻いても切り離せないひねくれた性分を貫くしか、自分を肯定する道はないのだと、腹を括るしかないのだ。
アンダーグラウンドのもっと下。汚泥の中から生まれるものがきっと好きなんだ。日の当たらない、しめっぽくて醜くて理解に苦しむようなものを公開することで、似たような自分を肯定してくれと願っているのだろう。胃の中で苛立ちが熱くなるくらいに、浅ましいと思う。
「何者かになりたい」
私の創作の根底はそこにあるのかもしれない。
189話「金カム大空襲」
前回に続いてみんな怪我しすぎじゃないか?
いや、これ、正直に書いていいだろうか。
サトル!どうしたいんや!!!
この2回でレギュラー陣どんどんリタイアさせて、この漫画の矛先はどこへ向かっているんだと、正直思ったわけだ。
尾形の右目は話の流れからまあそうなるわな、ということにもできる。というかそうでも思わないとやってられないのだけど。
しかしここにきて、谷垣まで危ういし、なにより軍曹、首いっちゃってるじゃん。
「天から役目なしに下ろされたものはいない」がこの漫画のテーマのように扱われているが(単行本のカバー外したところに毎回書いてあるし)軍曹、庇うの二回目。彼の役目は上官を身を呈して守ることにあると言いたいのだろうか。
この「役目」は決して、己のために何かを全うするというものではないのかと、前回から感じていた。
それでは、この漫画の主な題材でもある、民族を守るための戦いにおいて、信念を持つ者と持たぬ者とで、役割に大きく差が出るということなのだろうか。
アイヌの文化では、物に宿る魂が役目を終えて天に帰れるよう、傷をつける。
果たしてこのキャラクター達は、自らが役目を全うしたと感じ、天に帰ることができるのだろうか。
誰かの犠牲になることが役割だとい言うのなら、人生はあまりに酷い。人のために命を使うことを、美談だと考えるのは、私が現代の平和な世界に生きているからだろうか。
少し話は逸れるが、第二次世界大戦で亡くなった兵士たちは、英霊として靖国神社に祀られている。彼らの命は国のために。そこに彼らの意思があろうがなかろうが、彼らは「お国のために死んだ」とされている。そういう神社だからね。まあそういう解釈として今はここで扱うけども。
でも果たしてそれが正解だったのか。
正しかった戦争だったと後世に伝えたいがための理由なのではなかろうかと、戦争のない時代に生まれた私は思う。
結局のところ、正しさの判断は後付けでしかない。
もうこれ感想でもなんでもなくなってきたけど、なんか、こういう退場の仕方(まだしてないが)に私は怒りすら覚えてしまうのだ。
あれだけガンダムやらで、戦争で死んでいくキャラを何人も見てきてもそう思ってしまうのは、キャラに愛着が湧きすぎているからだろうか。
民族だ幕府だ軍だとか。そういう誰かが正しいと思って止まないもののために、これだけ傷つかなければならないのかと。
まあ、言っちゃえば彼ら軍人だし。テロリストだし。そういうもののために命を張ってると言われればそれまでなのだが。
なんか愚痴っぽい感想になってしまったのは、あまりにも怪我人続出のため、方向性がわからなくなってしまったからなのかもしれない。
でもこれでキロちゃん死んじゃったら、いろいろ葬られてしまう事実があるからここではまだ死なないのかな。
ていうか、鯉登、興奮してるのに標準語だったね。
やる時はやるってかんじでかっこよかった。心の中で「貴公子ぃぃぃぃ!!!!」って叫んでたね。よっ!薩摩のオジマンディアス!次は爆破に備えて、ピラミッドの代わりにあの灯台でも投げろよ!
もうこういうくだらない感想しか出てこないな。
前回から思ってたけど、キャラにここまでハマらないで、普通に「漫画」として楽しめてたらよかったなあと思わないでもない。
そしたらこの展開も、バトルシーンのかっこよさに興奮できてたのかもしれないな。ひとつ楽しみ方を得てしまったら、本来の楽しみ方を失ってしまったのかもしれないね。悲しいことだが、これも腐女子のサガなのか。ならば脈がなくても最後まで読み切るしかない。
ここまで何度も推しの死を乗り越えて、骨になっても生き返り、また推しをつくるという業を背負ってしまったのだ。
どうでもいいけど、白石またおしっこ?それ膀胱炎じゃね?って思ったら、時間軸が前回よりもちょっと前なんだな。
あとたぶんあの寒さなら止血も早いからきっとみんな助かる、はず。
にしても、スヴェちゃんはあの状況下でも何していいのかわからずオロオロしてそうだよな。そりゃそうか。無理やり連行されたらいきなり戦闘に巻き込まれてるんだもんな。どこまでも不運だ。家出、窃盗、逮捕、脱獄の次はなんだろ。思いつく限りの悪事をやらかしてんな、この娘は・・・。
今後の尾形を考える
先週の本誌ショックから10日ほど経って、読んだ直後の動揺した感情から、少しは落ち着いて尾形の今後を想像できるようになった。…と思う。
狙撃手として大事な右目を失う。そして流氷から落ちた銃。
これまで金カムは、何気ない1コマにその後に繋がる意味を持っていた。
私が記憶している中では、オロッコ民族の天葬。ロシア正教の八端十字架がクローズアップされているコマが気になって調べていたことがある。
あれは、その後の展開で、ロシア正教の拡大。つまりはロシア正教がアイヌ民族のすぐ近くまで脅かしてきているという示唆だったのではと、解釈している。
そう考えると、あの銃が海に落ちた1コマにも、何か意味があるのではと考える。
そもそも尾形が銃を使うようになったきっかけは、母親にとり憑いた父親の影を引き剥がそうとしてのことだ。
鳥を撃って持ち帰れば、母親はあんこう鍋の呪いから解放される。つまり、もう帰ってくる希望のない呪縛から解かれる。そして、自分に目を向けてくれるのではないかと。
尾形は、鳥を撃てば母親が自分を見てくれる。
勇作さんを撃てば父親が自分を思い出す。
その銃で命を奪うことで得られるものがあると考えていたのかもしれない。
もう何も撃てなくなってしまった尾形。
しかし銃を向けた先で得られたものがあっただろうか。
もしかしたら、杉元を撃ったのも、ウイルクが杉元に金塊のことを伝えたかもしれないから、ではなく、父親だけではなく杉元をも殺せば、アシリパには自分を殺す理由が生まれるからと考えたのではないか。
尾形はそうして、命を得意の銃で奪うことで、愛情は怒りという感情を得ようとした。
あの1コマは、もうおまえの銃では何も得られない。得られなかったじゃないか。もう諦めろ。という意味に思える。
しかし尾形には、それ以外に他人の感情を自分に向かせる手段を知らない。
だからこれからそれを知ることができるかもしれない。尾形が人らしく成長するのではないか。
とは、私は思えない。
絶望的なことを言うが、あの年齢になるまでまともな感情を持ち合わせていない人間が、一般的に正攻法とされているものを得ることは、かなり不可能に近いと思う。
それくらい、幼い頃から根付いてしまったものは、呪いのように身体に染み付きあらゆる場面で痛み出すのだ。その痛みで思い出すのだ。撃てない自分は、誰の感情も得られないと。
完全に経験則から言ってるだけだし、まあ漫画なのでそのへんは実際の人間の心理が当てはまるかもわからないが、たとえ尾形の出自を聞いて同情されたとしても、尾形の心には何も響かないだろう。
同情なんで犬のエサにもならないし。
同情されたとこらで、これまでの人生が覆るわけでもない。
未来を生きようとするために必要なのは、自分の判断と行動しかない。
他人はいくらでもアドバイスはできるが、実行するのは結局は自分なのだ。
散々書き続けてきた尾形が何をしたかったのかの理由が、だいたい明らかになってしまったが、キロランケとの接触の段階もまだわからない。
188話のタイトル「生きる」には、生きることの残酷さを表しているのか。生きることの意味を示唆するような展開があるのか。
生きる意味がわからない私にとっては、とても気になる流れになりそうだ。
188話「尾形、死よりも重い罪」
毎週頑なに続けてきたタイトルも変更せざるを得なくなった。
誰かが、利き腕か利き目を損傷するのではないかと言っていた。
私はそれを読んで、それは死よりも重い罰なのではと思った。
生きててよかった。
そう思えるのは人生を幸福と定義している人たちかもしれないと、私は思う。
生きて、これまでの罪を背負う事のほうが、地獄へ落ちるよりも修羅の道だと私は考えている。
私は自分の人生に照らし合わせ、「死」こそ救いだと考えているような人間だ。
別に尾形のように、法を犯すことはしていない。
だが、生きながらえさせることは未来を考えさせられる。
その未来に、幸福を想像できない人生を歩む者にとって、生きていることこそ地獄なのだ。
尾形に話を戻すが、右目を失った。
彼の利き目が右目なのかどうかはわからない。利き目を失ったとしても、銃の腕に支障がでるのかはわからないが、これから心も身体も欠けた状態で、杉元の制裁を待つことになるのだ。
仮に銃が撃てなくなったとしたら、彼は無防備のまま、粛清を受ける。それだけのことはした。当然の報いだと思う。
だが杉元は「この流れでは死なせねぇ」と言った。そして尾形の射抜かれた目に入った毒を吸い出した。
これは決して尾形を助けたわけではない。
アシリパさんを、人殺しにさせないため。「おまえなんかの命で」と。
不殺の信条を持つ少女、アイヌの希望になるべくアシリパさんには、尾形の命は軽すぎたのだ。
目を射抜かれ、倒れる寸前で尾形は笑っていた。
尾形には、もう銃を撃てなくなるかもしれないことや、自分の命よりも、不殺の信念を抱く者に「人殺し」をさせたかった。
それがようやく叶った、という顔だったのだろうか。
そして罪の重荷を課せることで、罪悪感を試したかったのだろう。ひとり殺せば二人目、三人目と躊躇いはなくなるだろう。
そして薄れゆく罪悪感に、自分の「人を殺して罪悪感を抱く者なんていない」という共通認識を認めたかった。
マイノリティからマジョリティに昇格したかったのかもしれない。
それがきっと、尾形の考える「救われる道」だったのかもしれない。
けれどその願いは破られた。
暗闇の中、己の罪を悔い改める時間を与えられ、死を待つのだ。
これほど残酷な「生」はないだろう。
思えば尾形は、あの時殺される覚悟があったのかもしれない。そうすることで、願いは成就されるのだから。
死を願う人間にとって、死ねないことは呪いなのだ。
そう、尾形に与えられた罰は死よりも重い。
尾形にこの先救いはあるのか。
何をもっても叶えられなかった、不殺の信念を汚すことを絶たれた今、それを覆す希望は現れるのだろうか。
完全に尾形を悪役として見ていたなら、杉元とアシリパさんの再会シーンも楽しめたのかもしれない。
白石シャンパンも心から笑えていただろう。
だが、想像できない尾形の希望ある未来を思うと、何も頭に入ってはこなかった。
独眼のスナイパーとして、新たな道に進路変更できるほど、尾形の心にはすでに常人の感情は残っていないように思える。
推しが死ぬのは当然悲しい。
だが尾形に関しては、死をもって救われて欲しかった。
先週の不遇な出自と人生に抗う姿に、生きる希望を私は与えられた。
それでもし今週殺されたとしても、おつかれ、と言って見送ってやる覚悟があった。あなたが抗った運命というしがらみに、私も抗う活力を見いだせたんだと。
それでも生かされたのなら、これからもみっともなく足掻いてほしい。ここからまっとうな人生なんてないだろうけど、それすらも楽しんでくれることを願う。
どうか救われる道が、ありますように。