どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【尾形深掘り回】罪悪感の正体

尾形がアシリパに向けて口にした「自分の中に殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

たしかに私もそうだと思う。

たとえば殺人を犯す際、様々な理由があると思うが、もう殺したいほど憎い相手を殺した場合、罪悪感を抱くのだろうか。

「殺したいほど憎い相手」これは例えば、自分の身内や大切な人を殺された復讐だったり、自分を限界まで苦しめた相手に対する報復の類が動機だったとすれば、罪悪感どころか「してやったり」と思うのではないか。

 

では尾形が口にした「罪悪感」の正体はどういった感情に起因するものなのか。

 

先日、罪悪感はに関するおもしろい意見を耳にした。


岡田斗司夫ゼミ#326(2020.3.15)「最強の人間関係操作法、教えます」 完全版 メンバー限定 (3/15~5/24 公開)

たしか有料メンバー内での発言だった気がしたので、気になる方はメンバー登録してみてくれ。

 

簡単にこの放送で触れられていた罪悪感についてを説明すると、罪悪感とは次にその行為を行う際の前払いなのだそうだ。

 

この動画では視聴者からの人生相談にも回答しているのだが、ついアンチコメントをしてしまい、後日罪悪感に苛まれる相談者に対し、岡田さんは「罪悪感は次にアンチコメントをする際の前払い」だと答えていた。

 

もっと身近な罪悪感について例えると、寝る前にどうしても小腹がすいてお菓子なりを食べてしまったとしよう。

食べている最中は欲求が満たされているが、食べ終わったあと、もしくは翌朝に罪悪感に襲われ自己嫌悪に陥った。という経験はないだろうか。

しかしこの翌朝に罪悪感を抱くのなら、夜中にお菓子など食べなければいいのだ。

しかしその瞬間、夜中にお菓子を食べたい!という衝動に抗うことができなかった。翌朝に襲われる罪悪感のことなど、この時は頭にはないのだ。

そして罪悪感の前払いというのは、次回もあるかもしれない就寝前に何かを食べてしまう行為への、罪の前払いなのだ。

ここで罪悪感で自己嫌悪するという行為は、未来の欲求に抗えなかった自分に対しての謝罪を前もって行っている、ということになる。

 

そして尾形の言う「人を殺した罪悪感」というのも、殺した瞬間に抱くものではなく、殺した後に訪れるものと解釈していいと思う。

もっと単純に言えば後悔である。

おそらく尾形曰く、自分がその時、そうすることが最善だと思って行った行動には、後悔など存在するはずがない。むしろ、自分がするべき正しい行いとして手を下したことに、なぜ後悔なんぞする必要があるのか。

こういった思考回路なのかもしれない。

 

もしも尾形が、深夜に小腹がすいてカップラーメンを食べたとしても、翌朝、罪悪感に苛まれることはないだろう。

あの時どうしても食べたいと思ったから食べた。

彼の中にあるのは、自分の行動に対する責任を放棄しない。という、一見すれば信念のようなものすら感じる。

 

しかし人を殺すというのは、夜中にカップラーメンを食べる背徳感とは規模が違いすぎる。

だが尾形にとっては、深夜のカップラーメンだろうが、人を殺めることだろうが、どっちにしろ自分の欲求や判断に対して後悔の念を抱かない。つまりそれはあの時俺が正しいと思ってやったこと。として、「なぜ俺はあの時あんなことを・・・」などと、振り返り反省する思考自体がないのかもしれない。

 

ここで前途した、罪悪感は前払いという話だが、尾形は自分の行為に対し、常にそれは正しいことだと一貫しているのだ。

だからもし次に同じ行為をしてしまったとしても、後悔を前払いする必要がないのだ。だって「あ~またやってしまった」と後悔することがないのだから。

 

要約すると、尾形の中では人を殺すことも、その時の最善の判断なのだ。

しかし、進撃の巨人でよく問答されていたように、その時の判断が正しかったかどうかは、未来でしか証明されないのだ。

翌日は後悔するかもしれないが、長い目で見たとき、一年後や数年後の未来で「あの時の判断は間違っていなかった」と思わされることは、日常でもある話だ。

 

罪悪感を抱かないということは、自分の言動が一貫して正しいと信じている。もしくは自分の言動に責任を持っている場合のどちらかではないだろうかと思う。

 

「殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

は、確固とした信念、いわば、それは自分の正義だと思っていなければ言えない言葉かもしれない。

尾形は、自分の行動に迷いがなく、また他社の理念には影響されない人間なのだろう。

自分に疑いがない男。

常に正しさが揺るがない男。

そして尾形の中にある「正しさ」は、万人にも共通するものだと信じたいのだ。

だから「みんな俺と同じはずだ」という発言が生まれる。その言葉をわざわざ他人に向けるのは、「同じであってほしい」という願いなのかもしれない。

尾形はずっと、他人や社会に理解されないことに孤独を感じていたのか。自分が間違っていると感じた瞬間がどこかにあって、その違和感に彼はどんな思いで過ごしてきたのだろうか。

 

【追記】

おもしろい話を思いついたので追記。

脳科学実験のひとつで、巨大な脳波検知器みたいなのに入るやつがあるんだが(説明が雑ですまんが気になる人はググってくれ)被検体は装置の中に入り、研究者から「好きなタイミングで左右どちらかのスイッチを押してください」と言われる。

すると被検体は自分のタイミングで左右どちらかのスイッチを押す。この時仮に右のスイッチを押したとしよう。

しかし被検体が「右を押そう!」と思う前、つまり被検体が右のスイッチを押す前から、研究者には被検体が右のスイッチを押すことがわかっているのだ。

 

この研究から、人間は何か行動を起こす以前に(おそらく一秒にも満たない時間)脳が指令を下しているのだとわかる。

「喉が渇いたな」と水を飲む以前に、すでに脳が我々に水を飲めと指令を出しているのだ。

ではこの「喉が渇いたな」という、水を飲むために用意された思考はなんなのか。

水を飲むための後付けの理由なのだ。

そう、人間は何らかの行動をとった際、自分自身に理由を与えている。

 

このことを尾形の言う「人を殺すことへの罪悪感」に当てはめると、戦時下で敵兵士を殺す際、引鉄を引く瞬間、軍刀を振るう瞬間、「敵国の兵士だから殺さなければいけない」「今殺さなければ自分が死ぬ」といった理由を発生させる。

そういった行動をとった自分への言い訳だ。

そして罪悪感が生じるのは、殺すに値する理由を自分自身に与えておきながらも、「それはほんとうに正しい選択だったのか」という納得できない感情が発生するからなのだろう。

自分の行動を正当化させる理由と、客観的に考えた場合の善悪。この双方が入り混じることでジレンマが生じる。

これが罪悪感の正体なのかもしれない。

 

しかし尾形に罪悪感がないとすれば、尾形の中には行動に対する理由さえあればそれ以外の感情が入り込むことがないのだ。

要するに客観的に捉えた際の善悪というのは、世間や社会から見た時に、それは正しく見えたかどうかに起因する。とすれば、尾形には社会やもっと細分化すると他人からの善悪のジャッジはどうだっていいのだ。

 

なぜ人は世間や社会の中において自分の行動の正当性を考えるのかは、私たちは社会の一員であるがゆえに、この世界で起こした行動には多かれ少なかれ責任を持たねばならないからだ。

だが、尾形には社会やそれによって作られた倫理観に責任を持たない。

これはサイコパスの特徴のひとつでもある。

尾形サイコパス論についてはまた別の機会に詳しく掘り下げていこうと思うので、この話はここまでにする。

 

全然関係ないんだが、今YJ半年間無料後悔やってるじゃん?

私は本誌連載を読まなくなった11/28号も無料部分に入ってるわけよ。

無料公開分の三月末まで、休載をカウントしなければ16話ある。

読むべきか。

読んだら感情の大洪水で脳みそが氾濫を起こし、睡眠時間を削ってここに氾濫した感情の水を流水せねばならなくなるんだが・・・。

16話かー。

私の体力と時間が今、リモート会議してる。

 

【ゴールデンカムイ妄想回】勇作とプロパガンダ

プロパガンダと聞くと、だいたいの人が悪いイメージを持っていると思う。

他人を説き伏せて洗脳する。という意味では、恐れるに値する手法なのだが、そもそもプロパガンダは私たちが生活する上でも必要なものなのだ。

 

いつものように「専門用語、ざっくり解説」を行うと、プロパガンダは相手に理解してもらうための手段なのだ。もっと簡単に言えばプレゼンだ。

このブログも、感想以外の深堀回などはプロパガンダに値するかもしれない。

こういう見方もあるという、読者に対する訴えでもあるし、それに共感や理解を示した人がいたならば、プロパガンダは成功と言えよう。

 

話を戻して、勇作がなぜプロパガンダかと思ったのかは、他の兵士を自らが偶像になり先導し、士気を高めることに成功したことによるものだ。

このプロパガンダに勇作はほとんど関与していない。だが、弾に当たらぬ神話の童貞を貫き、剣を抜くこともせず、およそ30kgもある旗を担いで先導したことは、他の兵士に自分を信用させるための手段としてはプロパガンダとも言えよう。

 

プロパガンダには大きく分けて2種類ある。

ひとつは、感情的プロパガンダ

もうひとつは、理性的プロパガンダ。である。

 

勇作の場合はどちらかと言うと感情的プロパガンダに近いと思われる。

理性的プロパガンダは、感情の首輪である理性を緩めることで成立するが、そもそも戦争に参加している時点で理性というものはほとんど無いと思われる。

理屈抜きに、ただ敵の兵士をひとりでも多く殺す。その目的のためだけに動いているのなら、もはや兵士はすでに国にプロパガンダされ、自らの思考で判断してはいない。

ただ、敵兵士を殺さなければいけない。それだけなのだ。

そして感情を更に躍動させるために必要なのは、理性的なうったえではなく感情なのだ。

 

勇作は自らが偶像もしくは軍神となり、極端な言葉を使うと洗脳したのだ。

「勇作殿がいれば弾に当たらない」

そんなこと、現実的にあるはずはないと、今の私たちなら理解できる。

勇作がfateのマシュのようなどデカい盾でも持っていない限り、そんな発言が出てくるはずはないのだ。

そう考えると、勇作は兵士のプロパガンダとして仕立てあげられ、自らもその責務を全うしなければいけない存在なんだと認識してしまったのではないのか。

 

過去回想シーンで勇作は尾形に「自分に旗手が務まるのか」などと、弱音を吐いていた。

あれは敵の銃弾の中を先行することへの恐怖ではなく、自分が兵士を洗脳できるに値する人物であるのかに対する弱音だと思う。

自分の行動によって、兵士は士気を高めてくれるのか。もし自分が旗手として兵士たちに認められぬ存在であれば、兵士たちを死線へ誘導することなどできない。そういう不安からであろう。

 

しかし勇作は見事、兵士たちに偶像として崇められることに成功した。

それにより、偶然にも勇作のそばにいた兵士が弾に当たらず進軍することができた。

要は勇作は兵士たちの感情論を強化できたのだ。感情により行動している兵士たちに、より強い感情を与える存在となった。

 

勇作は、プロパガンダに仕立てあげられ、その結果、プロパガンダとして成功した。

一種の宗教じみた行いにも見えるが、これがおそらく当時の「戦争」というのもだったのであろう。

 

戦うことを説得により理解させ、個々の判断を揺るがせる、または思考を停止させることでより強い兵士を作り出す。

国民が一丸となって「この戦争で自国は勝利しなければいけない」と思い込むことで、勝利はの道は拓かれる。

だが、多くの者は戦争に勝つと何が起こるのか。までは深く理解していないだろう。

 

それは二百三高地での戦いで勝利はしたものの、自国の兵士の遺体も回収されず、賠償金も得られず、結果、第七師団は何も得られなかった。それにより、鶴見中尉による新たなプロパガンダが生まれる結果となった。

不満感情の飽和に火をつけた鶴見中尉。

対して理性的に民族の存続を説くアシリパ

人の上に立つ者としての相反するプロパガンダは、果たしてどういった着地点を描いてくれるのだろうか。

【尾形 深掘り回】尾形と新平とオイディプス王

新平と聞いて「誰だっけ?」と思った人のために説明しておく。

単行本6巻、茨戸編に登場する、にしん番屋と賭場を仕切る日泥一家の息子である。

意気地がなく額に三日月の傷痕のある、あの男。尾形に

「親殺しってのは…巣立ちのための通過儀礼だぜ」

と諭された男と言えばもうバッチリ思い出すだろう。

 

そんでもって、オイディプス王も誰なんだという話だが、彼はギリシャ神話に登場する人物だ。

そしてなぜこのオイディプス王の話を持ち出したかと言うと、オイディプス王にまつわる神話の柱となるが「父殺し」だからだ。

 

そもそもここに行き着いた発端は、たまたまTwitterのTLに流れてきた「親殺しは通過儀礼という神話」という一文に、「あれ?親殺しってのは巣立ちのための通過儀礼って台詞、もしかしてギリシャ神話からなの?」と思い、即ググッたところ出てきた神話に驚いたのだ。

 

ざっくり説明すると、オイディプスは実の母親を愛してしまう。なので、父親を亡き者にすれば母親と結ばれると考えてしまう。

そんな時、オイディプスは太陽神アポロンから神託(予言)で「おまえ、父親を殺すことになるぞ」と告げられ、故郷を出ていく。

道すがらにあった三叉路で、向こうから来た男と「どけ、どかない」の押し問答になり、オイディプスは相手の男をうっかり殺してしまった。

この相手が実は父親だったのだ。

細かい部分は諸説あるので気になった人は各々ググってくれ。

ちなみに私が参考にしたうちの一つはこれだ。

https://novella.works/oedipus

 

この物語から、三叉路はこの先の人生の分かれ目、自らの行く末を阻む存在は父親。つまり父親を殺すことによって今後の人生への道が開ける。という意味合いらしい。

要は、親を払い除けることで初めて自立の道を歩くことができる。

このことから「精神的な親殺しは青年の通過儀礼」と言われるようになった。

 

さて、ここまでで新平とは二つの共通点が挙げられる。

 

1つは、母親を愛してしまったこと。

新平の場合は実の母親ではなく、父親の妾であったが、父親が愛した女に惚れてしまうという点では同じだろう。

 

2つ目は、父親殺し。

これも新平が直接手を下した訳ではないが、最後におそらくこれまで反抗的な態度を見せなかった新平が、父親に思いの丈をぶつけた。

これも言わば、精神的な父親殺し。つまり親子の呪縛からの解放と見てもいいだろう。

もしかすると尾形が手を下さなくても、このあと取っ組み合いになり、新平が物理的に父親殺しの通過儀礼を果たしてしまったかもしれない。

この親子のやりとりを見ていられなくなった尾形が「何モタモタしてやがんだ」と引鉄を引いた。のかもしれない。

「早く俺の予言(予想)通りに殺せ!」と、梁の上でヤキモキしていたのだろうか。せっかちだな、尾形。まあ隣の物置が燃えてるから、はよ終わらせろという気持ちもあったかもしれん。

 

いずれにせよ「親殺しは巣立ちの通過儀礼」という言葉を告げた尾形は、予言でないにしろ日泥親子の関係性を知って、梁にスタンバっていた。

それ故に、尾形が神託者であるかのような、逆光を背負っているような描写。

太陽神アポロンになぞらえていると言われれば、そう見えなくはない。

 

妾という単語に意味ありげに反応したり、尾形は自分と似た境遇の人間や、自分の欠けた部分のメタ的存在である勇作のような人間に、興味を抱くのかもしれない。

それは、それらの人間が自分と同じような行動をとるのかを、観察ないし試してみたいからなのか。

このオイディプス王の神話を調べていたら、おもしろい記述を見つけた。

心理学者、フロイトによると男児は最初の異性である母親を手に入れたいと望む」

http://textview.jp/post/culture/20854 より。

幸次郎が尾形の母親に対して愛情があれば、死に顔を拝みにくるかもしれない。という発想は、自分ならそうするという理念から発生したものなのか。

そのへんはまだよくわからないので、機会があれば調べてみようと思う。

 

【尾形 深掘り回】尾形にとって勇作とはなんなのか

同じ父親を持ちながら、人生が大きく違えてしまった尾形と勇作。

尾形は勇作が屈託なく、他の隊員の目を気にすることなく「兄様」と呼び親しみを覚えていたことを、疎ましく思っていたかもしれない。

いや、疎ましいという感情よりは、尾形が幸次郎に語った「面食らいました」という表現から考えると、率直に尾形は勇作の態度に「なんなんだこいつは」と訝しんだといった方が近いかもしれない。

 

さてこの勇作だが、死後、尾形の前に姿を現した。

当然だが亡くなっているので、実体ではなく尾形の見た幻覚として考えるのが自然だろう。

なんせ尾形が見た勇作は、尾形が撃ち抜いた頭から血を流し、当時着ていた軍服姿のまま犬の代わりに橇を引いているのだ。不自然極まりない。

問題なのは、なぜ尾形がこの時勇作の幻影を見たのかだ。

実際に見たという表現も適切かどうかは不明だが、こともあろうに勇作は「兄様、寒くはないですか」と尾形に話しかけている。勇作に話しかけられた、と尾形は錯覚したのだ。

 

私は幽霊の類をあまり信じていないので、オカルト的な解釈はこの際しないでおく。

そうなると、この時の尾形は、極寒の中、極限まで意識を集中し(前回のブログでも書いたが、本来ならスナイパーの集中力は最大でも40分らしい)心身共に相当疲労した状態だった。

ヴァシリの生死も確認せず(これも前回のヴァシリが、私はまだ生きているぞという台詞から、尾形がヴァシリの生死を確認していないととれる)朦朧とした状態で、アシリパたちの所へ戻ろうとした。その時に見えた幻覚である前提で考える。

 

極度の疲労と発熱により、尾形は意識障害を起こしていたと推測する。

私は専門家ではないため、ここからの記述はネットで得た知識から想像しただけにすぎないので、そのへんは生ぬるく読んでもらいたい。あくまで素人の妄想ぐらいに捉えてくれ。

 

ざっくり説明すると、幻覚とは「対象なき知覚」であり、実在はしないがはっきりとした感覚がある。状態のことを指すらしい。

そして主に幻覚は「誰かが自分の悪口を言っている」や「誰かが私を見ている」など、自分にとって恐怖や不安を感じさせるものが多いイメージがある。

それを前提として考えると、尾形が勇作の幻覚を見てしまったのは、心のどこか、もっと科学的に考えると脳の大脳皮質に蓄積された記憶のバグ。なのではないかと。

余談だが金縛りのメカニズムも脳のバグだと専門家は言っている。

尾形の無意識の中に居続ける勇作の存在は、撃たれた直後の姿なのだ。尾形は勇作を殺したことについて、ほんとうのところはどう思っていたのか。あれほど「殺した相手に対して罪悪感をなどない。みんな俺と同じだ」と宣言した尾形は、ひょっとすると母親を殺した時に抱くはずの罪悪感が湧かなかったことに、違和感があったのかもしれない。だから「みんな俺と同じだ」と、自分だけがおかしいのではないと思いたかったのではないか。

 

ここで一度、尾形が母親を殺めたきっかけに焦点を当てる。

尾形は母親も、勇作も、愛情という曖昧なものに白黒はっきりとした色をつけたくて殺している。

愛情があれば父は死んだ母に会いに来てくれるのでは?

勇作のことも、疎ましいとは一言も書いてはいない。ただ尾形が勇作に対して抱いたのは「ああ、これが両親から祝福されて生まれてきた子供なのか…と、心底納得した」という思いだ。

つまり愛情のあるなしが与える影響を、実にドライに捉えているのだ。それが自分に関わっていることでありながらも。

愛情がなければ死んでも会いに来ない。

愛情があれば高潔な人物に育つ。

尾形は、自身の存在を自分とすら捉えていないのかもしれない。

そして愛情の是非の対象はとうとう自分へと向けられる。尾形は自分すらも、愛情という曖昧なものを試す興味の対象としていたのだ。

 

勇作の死によって自分に愛情が巡ってくるのかどうか。

結果は残念ながらNOだ。

 

少し本題から外れるが、11巻103話「あんこう鍋」(今気づいたがこの漫画、ノンブルがないな)「祝福された道が俺にもあったのか…」の1ページ。

尾形の背後から光が差してるのだ。

この光、火鉢の横にあった棚の上にあるランプからのものである可能性は低い。

4ページ前の2コマ目。

火鉢にあたる(こいつよく火鉢の前を陣取るな。寒がりか)尾形の背後右に、幸次郎が横たわる布?の角が見えることから、幸次郎は右斜め後ろにいると思われる。そしてこの時の尾形の影は、真後ろにある。

つまり件の場所、幸次郎の目の前に尾形が来た場合、ランプの光は尾形の背後、左斜めから当たるはずなのだ。

しかし「祝福された〜」の尾形にあたる光は、完全に真後ろからだ。しかもあの小さなランプの光とは思えないほど、後光のように差している。

 

もうこの際、尾形の背後を照らす光が室内のランプなのかはどうでもいい(!?)

私が伝えたいのはこの光が何を意味しているかなのだ。

その答えは次のページを捲ると判明する。もう一度言うが、ページを捲った先に繋がっているのだ。

 

夕日だか朝日だかに照らされている尾形少年のコマだ。

夕日か朝日かの点については、私の妄想だと夕餉の食材にしたく鳥を撃ったことから、夕日なのではないかと。

でも光の差し方や山と空の境界が白んでいることや、夕焼けならもっと濃いトーンを上空に重ねるのでは?との憶測から朝日にも見えなくはない。

この疑問は色のついたアニメを見るとはっきりするのだろうが、私はゴールデンカムイに関してはこの監督を信用していないので参考資料としては除外する。

まあ朝日でも夕日でもいいや。

とにかくこの太陽の光が、前ページの尾形の背後を照らす光なのではないか。

 

そして尾形少年の目線だ。

このコマだけを見ると、どこ見てんだこいつ。となる視線。左斜め上を見ている尾形少年の先には何があるのか。

前ページの父親に語りかける成長した尾形だ。

つまりこの時の尾形は、思い出の中の少年が自分を見ている。と思っているのだ。

 

この構図に気づいた時、私は度肝を抜かれた。

敢えてこのシーンを見開きにせず、ページを跨いでいることで、時間の流れを表しているのだ。(改めて言うが完全に私の妄想だ)

 

この撃ち落とした鳥を持っていけば、「今日はあんこう鍋をやめにして、百之助が捕ってきてくれた鶏鍋にしましょう」と、幸次郎の思い出に取り憑かれた母親は、自分の方へ愛情を向けてくれるかもしれない。

そんな期待と希望をまだ抱いていた時の尾形少年の姿。この太陽の光は、祝福への希望だったのだ。

尾形少年は成長した尾形に視線で語りかけている。

「あなたは祝福されて生まれてきましたか」と。大人になった自分へのメッセージだ。

そのメッセージや希望は、その後すぐに打ち消された。

そして、尾形少年は愛情というものの存在を確かめるために、殺鼠剤で母親を死に至らしめ、幸次郎の愛情を試した。

その希望の光が、祝福も愛情も自分には存在し得なかった尾形の背中を照らしているのだ。正面ではない、背後を、だ。

そのため、尾形の表情は逆光により暗くなっている。光と影の表裏一体、祝福されず両親から愛情を与えられなかったと確信できた尾形には、希望の光が遮られた影が落ちる演出。

この2コマの意味に気づいた時、(何度も言うが私の勝手な妄想で作者の意図は不明だ)野田サトル、やっぱすげぇよ!!と、感銘を受けたのだ。

 

 

話がだいぶ長くなったが、この尾形が愛情もなければ祝福もないと確信したことによって、尾形はナーバスになることはなかった。ここが一般的に考えると共感し難い部分でもある。

 

だがここで話を戻して勇作の幻覚に触れると、尾形は自分の中に愛情を与えられ祝福された存在である勇作を取り込んだのではないかと考える。

尾形が父親の愛情を試すために勇作を殺したのなら、その時点で勇作にはなんの価値もなくなるはずだ。

残酷な言い方をすると、実験の結果を得た尾形にとって、実験材料であった勇作はもう不要だ。しかし尾形の深層心理の中に勇作は居続けているのだ。

おそらく尾形は勇作をコンプレックスとして捉えつつ、自分の欠けた部分は勇作のような祝福された人生を得た高潔な部分だと考えているのではないか。

自分にはない、得られなかった勇作というコンプレックスを、尾形は意識の深い部分に宿した。もしかすると、自分が手をかけたことにより、一層根強く宿っているのかもしれない。

それは何も贖罪からの意識ではない。

尾形は自称、人を殺すことに罪悪感を抱かない男だ。

罪悪感がないからこそ、殺したことに対しての後悔の念はない。実際には引鉄を引くまではそう思っていた。

しかし熱にうなされた尾形が見た夢なのか回想シーンなのかは、はっきりしないが、勇作を撃った瞬間、振り向き尾形を見た勇作に、尾形は少しはっとした表情をしている。元々表情がわかりにくいキャラなので、目に見えて驚いている感じはないが、明らかに人を殺しても罪悪感のない人間の顔ではない。何かに気づかされた顔をしている。

 

そして次のページには、尾形を見下ろすアシリパのコマ。この時、尾形は勇作とアシリパを重ねたのだ。

考えるに、アシリパに対しても勇作と同様に不殺の信条を試したのは、勇作を撃った瞬間に尾形は罪悪感に似たものを感じたのかもしれない。

だからもう一度、試してみたくなった。

つまり、母親を殺した時に抱かなかった罪悪感を正当化したかったのだ。

だから尾形の中には唯一、殺した時に罪悪感を生んだ勇作がずっと居続けているのだ。

勇作は尾形にとっての不可侵領域のようなものであり、ずっと心に居座るわだかまりなのではないか。

瀕死の状態で勇作が尾形を目的地まで先導してくれた幻覚を見たのも、たとえ尾形に撃たれたとしても尾形を助けようとする高潔なイメージが強烈に尾形の中に根付いているからだと思われる。

それこそが尾形のコンプレックスなのだ。

勇作の存在が、母親を殺しても罪悪感を抱かない倫理観に欠けた自分に相反するものであり、異質なのだ。

尾形は自分の欠けた部分を正当化したく、勇作を撃った時に抱いた感情さえも嘘だと証明するために、アシリパを利用した。

 

おそらく尾形は共感が欲しいのかもしれない。

自分が異質であることを否定してくれる証拠を得るために、他人の倫理観を試すのだ。

勇作が尾形に執拗に迫っているのではない。尾形が勇作の人間性固執しているのかもしれない。勇作を血を分けた兄弟だと思っているのは、尾形も同じなのかもしれない。

父親に「何かが欠けた」と言われ、満足そうに笑った尾形は、人とは違う自分を肯定されたと感じたのだろう。しかし心の中にはずっと、相反する存在の勇作がいるのだ。自分を肯定したい尾形を否定し続ける、勇作が。

 

【ゴールデンカムイ】尾形が花沢中将の息子であることは、どこから漏れたのか

今回話数や巻数は関係なく、ふと疑問に思ったことを書き殴る回。

 

そもそも、勇作が尾形を認識していることがおかしくないか?

 

だってふつう(この時代のふつうがまずわからんけど)自分の息子に「俺には芸者に生まれた子供がいる」なんて話すか?

この時代、妾腹は珍しくない話であっても、幸次郎は尾形とその母親を無視し続けたわけじゃない?存在自体を自ら否定してきた。下手したら、尾形が息子なのか娘なのかさえ、知らなかったかもしれない。

なのになぜ、勇作は腹違いの兄がいると知っていたのか。そしてその異母兄が第七師団にいることさえも知っていたのか。

 

父親が話したとは考えにくい。

では誰が勇作に話したのか。

 

鶴見か?

 

21巻までを読んだ私の中で一番可能性が高いのは鶴見である。

鯉登少年誘拐事件に関与させられていたメンバーのうち、わかっているだけでも月島は鶴見劇場のシナリオの一役として、意図的に配下になるよう仕組まれていた。

となると、尾形にも鶴見劇場の演者に招き入れられた可能性がある。

 

ここからは完全な憶測だが、鶴見はなんやかんやで花沢中将に妾に産ませた子供、それも息子がいるとう情報を得る。

これももしかすると、花沢中将暗殺をかなり早い段階から企てていたため、身辺を調査して行き着いたのかもしれない。

 

鶴見は尾形が第七師団に入隊するよう謀った。

だいたい、茨城出身の尾形が北海道の第七師団へ入隊していることが不自然にも思える。

本来なら特別な理由がない限り、東京の第一師団、もしくは宇都宮の第十四師団へ入隊しているのが自然だ。

Wikipediaより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7

 

月島の回想でも、新潟の三角眉毛のあいつは、第二師団であった。

ちなみに第二師団は現在の仙台市に設立され、仙台の歩兵第4連隊、青森の歩兵第5連隊、新潟県新発田の歩兵第16連隊、仙台の歩兵第17連隊の4個歩兵連隊を基幹としている。

よっぽどのことがない限り、徴兵される際は在住ないし出身地域から、そう離れていない場所に本営地を置く師団に入隊することになっているようだ。

 

八甲田遭難事件で有名な第八師団も、ほとんどが地元青森や東北の人間で構成されていた。

つまり、尾形は誰かの計らいによって、父親が所属する第七師団に入隊する運びとなったと考えられる。

まず、茨城出身の尾形が、屯田兵を中心に構成された第七師団に入隊していることが不可解なのだ。

異例はあっただろうが、そのへんまではよくわからん(雑)

 

鶴見は、尾形を懐柔し花沢中将を暗殺させることを目論んでいた。

なぜ尾形なのか。

それは月島同様、恩を売るためであろう。

無視され続けた息子が父親に抱いている感情。憎しみがないわけがない。そこに目をつけた鶴見が、復讐のチャンスを尾形に与えた。

おそらく鶴見は母親が死んだのも、尾形が手をかけたとまでは知らない。まさか幼い息子が母親を毒殺したなどという事実が広まれば、尾形家は村八分にされるだろう。この辺は祖父母が隠蔽したか、そもそも祖父母は尾形がやったことにすら気づかなかったかもしれない。

なんせ自ら「ばあちゃんっ子だった」と語った尾形は、祖母からは愛情を受けて育ったのだろう。

祖母が尾形が自分の娘を毒殺したとわかっていたなら、愛情を持って育てることは難しい。

鶴見は、尾形母は幸次郎への恋慕の拗れにより死んだかなんかだと思っているのかもしれない。

どちらにせよ、母親を殺さなければいけなかった要因は父、幸次郎にある。

幸次郎に無視され続け気が触れた末に亡くなった。この事実さえあれば、尾形は父親に対する憎悪を抱いていると想像するに容易いだろう。

 

さらに勇作の存在。

誰もが、尾形は勇作に対し、「父親に愛情を注がれた子供」として疎ましく思っている。そう考えてしまうだろう。

同じ軍人の血が流れているにも関わらず、片や陸軍学校へ通わせてもらい、少尉として尾形の前に現れたのだ。

母親が違うだけで、分断された兄弟の人生。

鶴見は勇作の性格までも把握していたのかもしれない。

あの時代は一人っ子は珍しく、兄弟に羨望を抱いていたかもしれない勇作に、兄がいることを伝える。それも同じ第七師団にいると。

勇作はあの通りの性格なので、純粋に兄がいたことを喜び、無邪気に尾形を「兄様」とまで呼んだ。

全然関係ないけど、「兄様」のイントネーションが「アニサマ」と同じなことをアニメで知った。

アニサマとは?

https://anisama.tv/2020/index.html

 

 

 

運良く、花沢中将の嫡子をこちらに手懐けられれば、鶴見大勝利の可能性さえ見える。

第七師団を我が物にするには、花沢中将は二百三高地以前から、鶴見にとっては目の上のたんこぶのような存在だったのかもしれない。

まあどういう理由があるにせよ、鶴見劇場親子二代の法則を利用するには、尾形は鶴見にとってうってつけの人物だっただろう。

 

 

尾形自らが進言した可能性

これは前途に比べれば薄いのだが、可能性としてゼロだとも言い難い。

 

尾形自身が、母親ないし祖父母から、父親が花沢幸次郎だと聞き、彼の在籍(であってんのか?たぶん違うな)していた第七師団への入隊を志願する。

そこでそれとなしに、自分は花沢中将が妾に産ませた子供だと触れ回る。

まさかそんな冗談…と鼻で笑って済ますことのできない、尾形の容姿。とくに眉毛。

噂話は男所帯だろうと、閉ざされた集団の恰好の娯楽となりどんどん拡散されていく。それがデマだろうとなんだろうと、おもしろければ拡がる。

どこかで見た図式だろう。Twitterと同じ原理だ。

そうして鶴見の耳にも、その噂が入る。

 

まあ、こんなパターンもありえなくはないかなと。

しかしなぜ尾形が、自分が花沢中将の妾腹の子だと言い出したのか。

試したかった。

勇作が死んだら父親が自分を愛おしく思うのではないか。

その為に第七師団に入隊し、勇作を撃つ機会を得る必要があった。そのお膳立てとして、鶴見が自分を利用するように仕向けた。結果、花沢中将の暗殺の役目が回ってきた。

父親が、亡き本妻との間に産まれた息子の代わりに、自分を切望するのかどうかのトライアル実験とでもいうのだろうか。

敵を殺めてなんぼの戦争の中で、敢えて不殺の偶像になることを求めた勇作の死後、そのお鉢は尾形に回ってくるのかどうか。

しかし幸次郎の答えは「何かが欠けた不出来な倅、呪われろ」だった。

それを言われた尾形は微笑した。

僅かな祝福を得られる可能性があったにせよ、想定内の答えに満足した。私にはそう見えた。

 

そして尾形は用済みとなった第七師団から脱走した。

 

…ってのも、なくはないかなと。

 

まあどちらにせよ、どちらでもなくても、この真相が原作で語られることはあるか。

当時の戸籍の扱いがどうだったかまではわからないが、今よりも調べることは容易いと考えれば、誰かが尾形の出自を暴いたか、自ら口にしたかのどちらかだろうと、今の段階では想像している。

 

一体、尾形、勇作、そして第七師団の誰もが知っていた、尾形百之助は花沢中将の妾の子であるという出自の謎は、これからも気になる謎である。

【ゴールデンカムイ】21巻「文化の意味と道しるべ」

久しぶりの感想ブログ。

本誌を毎週読むことをやめてから約四ヶ月。

しかし21巻はまだ私が本誌を読んでいた頃の話数しか収録されていないため、感想が重複しているかもしれない。まあおさらいというか、備忘録的な感じで、201話から211話まで改めて感じたことを書いていく。

加筆修正もされ、記憶が曖昧だが台詞が大きく変わっている部分もあるように思えるので、新たな解釈が生まれたような気もするし、同じようなことを思っていたかもしれない…。

 

201話

生米を噛めるおばあちゃん。アイヌのおばあちゃんは歯が丈夫だったのかしら。ポリ○ントいらず。

尾形の放ったロシア語から、過去にも同じ言葉をかけられていたことを覚えていた鯉登。ロシア語の発音って、英語よりも聞き取りづらいのに、それを後生大事に覚えていた鯉登、実は賢いのでは?とすら思ってしまう。

おそらく他のロシア語よりも、侮蔑を込めた言い方が印象に残ったのか。

私も普段、手鏡持ってないわ。汚い顔ですまん。

 

202話

ヴァシリの逆襲。

「私は死ねなかったぞ」

この一言が引っかかる。死ねなかった。殺しそこねた。殺したと思っているだろうが、生きている。

であれば、頬をぶち抜いた時点で尾形はそのまま死体を確認せずに立ち去ったのだろうか。

スナイパーの集中力は20分~40分とされているらしい。

だが彼らはほぼ一晩中、意識を極限まで集中させていた。帰路で勇作の幻覚を見るほど憔悴しきっていた。

であれば、相手の身体に弾が貫通した手応えを得た時点で、確認せずに引き返したとしても不思議ではない。たとえ慎重な尾形であっても。

ということは、尾形はヴァシリが生存していることを知らないのだ。

かつて私は、彼らが裏で繋がっているのではないかと推察していたが、まったくお門違いであった。

あえて生かしたのではなく、単純に殺し損なった。と考えられる一言だ。

 

203話

ヴァシリの絵のうまさと杉元の絵心のなさ。

ヴァシリが手配書の裏に尾形を描いていたことで、キロランケにはすでに興味を失っているとわかった回。

というか、ヴァシリにとって母国のテロリストであったキロランケから興味関心を奪うほどの尾形の存在も妙であるが、ヴァシリは祖国愛よりも、狙撃手としてのプライドが優位に立ったのだろう。

そしてソフィアは脱ぐ必要があったのか。

初めて女性の乳首が露になった伝説回かもしれない。お色気要素がなければ、乳首描写もさほど反感を食らわないとわかった。

 

204話

クズリ捕獲のため、山に入る前に火を起こして気合いを入れるアシリパに、嫌味な物言いをする杉元。

火起こしの儀式をまじないの類と捉えていた杉元に、山での多くの危険に対し気を引き締める役割だと話すアシリパ

これまでゴールデンカムイで紹介されてきたアイヌの風習や儀式には、祈りといった意味合いよりも、理論的にそれを行っているように思えるものが多いなと感じた。

それらはアイヌ民族がそれぞれの土地で暮らす生活の知恵に結びついている。過酷な北の大地で生き抜くための知恵。それが文化であり、生きるために残さなければならないものだと、アシリパは感じ始めているように見えた。

 

205話

まだ205話なんだけどみんな大丈夫?まだまだ続くけど。

 

活動写真で亡き両親の姿を目にするアシリパ

しかしフィルムの中に残る母が、どんなに表情豊であろうと、父、ウイルクが語った母の話のような温度を感じることはできなかった。

ここでアシリパの、様々な思いが渦巻いていた

意思が、泥濘から粘土ぐらいに固まり始めたと思われる。

アイヌ文化は残さなければいけない」

しかしそれはあくまでウイルクやキロランケから植え付けられた、いわば、降ってきた雨のような意思であり、アシリパ個人の中から湧き上がったものではなかった。

が、ここにきてはっきりと「残さなければいけない」理由にアシリパ自身の指先が触れたような回だった。

まったく関係ないが、ジュレールくんのモデルはあんの監督だろうか…。

 

206話

しかし、自ら監督したアイヌの昔話も、結局はどんなに新しい技術を用いても、口伝による温かみまでは伝えられないと悟るアシリパ

これは技術に委ねず、生き証人のようにアイヌ民族が語り継がねばならない文化であると気づく。

余談だが、現在アイヌ語は絶滅危惧言語の大変危険な分類に属されている。

そのためにも、巻末で記載されていた北原次郎さんら、アイヌ文化の研究と伝承に力を注いでる方たちがいる。

そのおかげで私も先日、大変貴重で興味深いアイヌ関連のお話を伺うことができたのだが、そこで特に印象深かったのは、日本は戦後、単一民族になったというくだりだ。

戦前の日本は、アイヌ民族はじめ、琉球など様々な民族が生活し、多様性のある民族であった。しかし戦後、というか戦時下で日本は、共通の敵を前にし団結力が高まった。

 

アメリカのオクラホマ州で行われた、ロバーズケイブ実験 https://www.blog.crn.or.jp/report/02/153.html

でも似たようなことが検証されている。

対立していた二つのチームが、トラブルを与えられると協力し始めたという結果だ。

 

このように日本は戦後、日本人という単一民族への意識を強くし、今日に至る。

しかし多様性を認め、理解し合わないことが、どれほど生きづらいことかを、最近は問題視するようになった。

 

アシリパはおそらく、民族や文化の衰退の危険性を理屈ではなく肌で感じていたと私は考えた。

 

207話

入れ墨が一枚でも欠けていたら…。

最近になって私は、この入れ墨人皮はすべて揃えなければいけないのか疑問に思った。

23人の囚人に暗号の鍵となる入れ墨が彫られ、それは皮を剥ぐように仕組まれていた。そうすると必然的に、暗号を解くためには、入れ墨を彫られた囚人、すべての人皮、もしくは写しを手に入れなければならない。そしてそれらは繋ぎ合わせることで意味が生まれる。

果たしてほんとうにそうなのだろうか。

バラバラに散らばったピースは、繋ぎ合わせることで完成する。私たちはなんの疑いもなく、そう理解していた。

だが、すべて揃うことが絶対条件なのか。

もしかしたらすべて揃うことで、意味の無い入れ墨があるとわかるかもしれない。すべての人皮の中に、違和感のあるものが含まれていると気づくのは、すべてが揃ってから。という仕組み。そしてその逆もありうる。すべての人皮が揃うことで、ひとつだけ正解があると。

もしかすると、すべて揃えるという思い込みこそが、ウイルクの仕掛けた暗号のひとつなのかもしれない。怪我をした狼が群れに戻れないように。

 

208話

鶴見と土方の頭脳戦。

今回は、有古が偽物を持って戻ってくることまで考えていた、土方に軍配が上がった、のか?

最終的にこの二人の騙し合いになることが予想されるが、鶴見の狡猾さに土方の冷静さの駆け引きが見ものである。

しかし金塊は元々どちらのものでもないのだ。

金塊を利用する権利は、どちらにもないのだ。

 

209話

やっと終わりが見えてきた…。

ここね、何度読んでも泣ける。

家族のいないインカラマッとチカパシ。家族を捨てた谷垣が、作戦とはいえ家族として過ごし、家族のような絆が芽生え、そしてチカパシにほんとうの家族を与えた。

21巻はね、アシリパの気づきと杉元との解釈の一致がメインにも思えるけど、私的には谷垣とチカパシの別れがもうサビなのよ。

チカパシのような子供にとっては過激な旅だった。遭難しかけたり、犬泥棒に反撃されそうになったり、子供が背負う必要のない危険を存分に経験した。

けれどチカパシの中ではどれも素敵で温かい思い出として残っている。少年にとって、大きな成長を遂げた大冒険だったのだ。

故郷のコタンで、同じ民族でありながらも孤独を感じていたチカパシは、谷垣やインカラマッとの旅をすることは処世術でもあったのかもしれない。信頼に足る大人を見分ける術も持たぬ(いくつぐらいなんだろ)子供が、自ら居場所を選んだ。その居場所から、ほんとうの家族を見つけることができたのだ。

そして谷垣は大切な二瓶の銃をチカパシに託す。「もう支えてあげられない」これからはこの銃を一人で扱える大人になってくれとの願い。それを見届けられはしないけど、きっとチカパシなら立派に勃起してくれるだろう。

別れは終わりではない。引き継ぎなのだ。継承なのだ。

エノノカと家族になり、また再会してくれる展開を望まずにはいられなかった。

 

210話

ハートフルな前話から一転。鯉登の表情が曇る。

バルチョーナク、満鉄。

このワードにより鯉登の中に疑惑の仮説がむくむくと湧き上がる。

月島、まさかの失言。何も信じられなくなった鯉登は、尾形の言葉を軽んじるどころか、そちらの方が真実なのではないかと、あれだけ心酔していた鶴見にまで牙を向けようとする。

そう、過度な相手への羨望は、たった二つの単語でいとも容易く反転してしまうのだ。

「まさか、鶴見中尉がそんなことを…」

尾形なんぞの言葉に翻弄されるはずはない。これまでの鯉登を見ている限りでは、そう一蹴しただろう。だが、彼は実際に誘拐され、その言葉を耳にしているのだ。自分が体験した、覆さざる事実は、狂気とも思えるほどの忠誠心にすら亀裂を入れた。

一瞬の疑惑は、和紙に墨を落としたようにじわりじわりと広がっていく。そうするともう止められないのだ。白よりも黒が勝ってしまうのだ。

人間、希望的観測よりも、不安要素の方が気になってしまう。

いついつ大地震が起こる、年金がもらえなくなる。そして今話題の例のウイルスの情報も、トイレットペーパーが無くなるといったデマにすら踊らされてしまう。人間は身を守るために、不安を煽る情報をより信じてしまうのだ。

そして不安の種が芽を出し、枝葉がこれまでの経緯になぞって伸びていく。そこで成熟した木は、鯉登の怒りの果実として実った。

月島は尾形が幸次郎を殺したことも知っていた。その頃から、この鶴見劇場を観覧していた。

一体、どんな気持ちで眺めていたのだろうか。

いつから鶴見劇場をかぶりついて観たいほどの興味に変わったのだろうか。

そもそも一度は死んだ命も、鶴見によるもので、彼はずっと鶴見の演者としての役割を生きてきた。いや、生きてきたと言えるのか。演者の役割を脱ぎ捨てることはできるのだろうか。

いっそこの狂気を楽しむことでしか、彼は自分自身に救われる道はないと思っているとしたら。幸福の尺度は他人には測れないが、どうかラストまで間近で見届ける、一番の観劇者であってほしいとも思う。

 

211話

鶴見の脳漿炸裂チューイの描写は、大幅加筆によるもの…だったよね。初めて見たもの。本誌で読んでたらインパクト強すぎてブログに書いてた、書かないはずはないじゃない。

あの汁、あんなにドッバドバ漏れて大丈夫なもんなのだろうか。脳汁大サービスにもほどがある。

さて損傷した前頭葉から興奮すると漏れるという本人談だったが、

前頭葉は、人が行動を開始し、または抑制する機能を司ります。

 さらに、生活をする上で必要な情報を整理、計画して処理・判断することも前頭葉の役割です。

 加えて、自己を客観的に捉えることや感情を持つこと、言葉を発することができるのも、前頭葉が機能しているからです。』

https://www.wirenh.com/koujinoukinousyougai/zentouyou/ から引用

 

そして前頭葉を損傷した場合、感情を抑制することが困難になるとも書かれていた。

医学的知識さっぱりなので、ここに書かれていることから推察する限りだが、ついに金塊を解く鍵を目の前にし、狡猾な性格である鶴見の感情がブレブレになった。と考えた。

普段から鶴見を見てきた部下は、この変動ぶりにたいそう驚いたのも無理はない。脳汁の量に驚いたのなら、我々読者や杉元たちとて同様だ。だが、鶴見の部下たちは一様に、他の誰よりも冷静さに欠けた鶴見の不敵な笑い声と直情的な物言いに、目の前の人物が自分たちの知る鶴見中尉であるかを疑いすらしただろう。汁だけにな!

 

そして月島や鯉登の件を考えると、菊田や宇佐美など、他の部下も綿密に篭絡させられた可能性がある。

相手を手中に収めるために、長い年月と手間を惜しまなかったことを知る部下たちからすれば、月島の思うように「甘い嘘」でアシリパを取り込もうとはしなかった鶴見の言動に違和感を覚えるのは当然だ。

しかし鶴見はハナからアシリパを、倉庫に監禁

しておく算段だった。

焦っているのだろうか。

月島や鯉登のように長い年月をかけて作動する鶴見タイマーを使用している暇などないのだろうか。

土方が間者を利用し自分に迫ってきたことで、丁寧に飼い慣らす時間はないと悟ったのか。

 

いずれにせよ、白石が杉元を改心させ?アシリパの相棒としての立場に戻ったことは、私個人としては嬉しい。

ほんとうに主観なのだが、これまでの杉元のように、他人、特に身近な人間に自分自身が救われる望みを預けているのは、とても危険なことなのだ。

もしこのまま杉元が幸せだった頃の自分をアシリパの中に植え付けたまま、元の自分に戻れなかった場合。杉元はアシリパを恨んでしまう可能性が高い。

要は、かつての幸せだった頃の自分の理想化=アシリパ。の図式だと、その責任をアシリパに抱かせることとなるからだ。

自分の幸福を他人に委ねる。これは自分が理想に近づくための責任を、他人に委ねることと同じだと私は考えているからだ。

アシリパアイヌのために戦うことを選んだから、俺は元の自分に戻れなかった」

などと、言い出しても不思議ではない展開になるやもしれん。

あくまで個人、個人としての対等さはない。もっときつい言い方をすれば、依存しているのだ。

 

しかしアシリパは、杉元が思うような、金塊争奪から手を引くか、戦うかの極論でものを考えてはいなかった。

彼女はアイヌ文化を残す必要性を感じ、さらにそのためには戦う(和人との戦争)以外の道もあるのではないかと考え始めた。

 

文化や民族の多様性のためにアイヌの存続を願うならではの、選択肢の多様性をアシリパは読者に与えたのかもしれない。

彼らは利害関係が一致した相棒だったのだ。

それがユクの中での干し柿の一見以来、アシリパを偶像化してしまった。

杉元とアシリパは、お互い足りない部分を補うパートナーであり、どちらかの行動を否定するではなく、共に最善の道に向け試行錯誤するための共同体なのだ。

杉元が干し柿を食べていた頃の自分に戻れるかどうかは、言ってしまえばアシリパには関係ない。そういう思いもあるだろうが、それは杉元自身の心持ちの問題であり、アシリパが不殺の信条を貫きアイヌ民族存続と無関係な暮らしに戻ったとしても、それで救われたと思うのなら単なる思い込みでしかない。

幸福だった過去に縋る気持ちは誰にでもあるかもしれない。だが時間が逆行することも、戦争が起きなかったことも、寅次が死んだことも、戻ることはないのだ。

「あの頃」はもう永遠に戻らない。

だとしたら杉元はの取るべき行動は、この先、新たな幸福を見つけるしかないのだ。

 

長々と各話数で以前ブログに書いてなかったであろう感想をまとめました。

今回はそれぞれの心理を勝手に想像してみた部分が多かったが、改めて各々に根付く感情が根深いなと感じた。

余談だが、最近、犯罪心理学を噛じるようになって、この漫画に登場する狂気的なキャラクターの心理を紐解きたくてたまらない。

もちろん尾形に至っても、まだまだ掘り下げる要因がたくさんあるので、機会があればこれからの尾形の動向で、心理を読み解いたものを書ければいいなと思っている。

 

ほんとうにクソ長くなってしまったが(これでもだいぶ端折ったのよ)、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

スター、とても励みになります。

ゴールデンカムイ[特別編]アイヌ語アイヌ文化と東北・東北方言のシンポジウムへ行ってきた

今回、弘前学院大学で行われたシンポジウムで、なんと「漫画史におけるゴールデンカムイ」というタイトルの講演も行われると聞き、足を運んだ。

 

現在、アイヌ語は絶滅危惧にあるというお話から始まった。

アイヌ文化は文字を持たず、その文化は口伝継承でしか残されないため、アイヌ語が失われるということは文化を残す手段も消えてしまう。

今回のシンポジウムは、日本が戦後、単一民族を強調し今に至るが、文化の多様性を知り、尊重することの大切さを伝えるものだった。

 

まず北原モコットゥナシさんによる、アイヌ語アイヌ文化のお話から始まるが、まずこのブログの中心である「ゴールデンカムイ」とアイヌ文化のお話を今回は書いていこうと思う。

北原さんのお話は、またの機会に。

 

お話してくださったのは、弘前学院大学教授の井上愉一先生。

井上先生は、ゴールデンカムイ2巻のフチと杉元の会話に注目した。

 

フチがアシリパが寝たあと、アイヌの言葉で杉元に話すシーン。

本誌ではこのフチの台詞に日本語訳がなかったという。この頃まだ本誌を読んでいなかった私も驚いた(アニメでは字幕もあったが)

杉元はフチの話すアイヌ語がわからない。

だが少しの沈黙のあと、杉元はフチの言葉をなんとなく理解し、アシリパがフチにとても大切にされていると解釈した。

 

このシーンから井上先生は、言語が違えど気持ちは通じる。ここに文化の多様性と、多文化を理解しようと試みることが、文化を越え人を理解することに繋がる。先生のお話から私はそう感じた。

何度も読んでいたシーンだが、改めて気付かされた。

しかし杉元はこのあと、言葉の通じるアシリパの気持ちを汲むことはできなかった。

相手の気持ちを理解することは、言語の違い以上の難解さがあるのだ。

 

さらに井上先生はゴールデンカムイにおいての、食文化の描写の深さに着目した。

ここでスクリーンには、リスの捌き方を懇切丁寧に語り、杉元に脳みその洗礼を与え、上品なシサム(和人)のためにリスの肉を細切れにしつみれ汁にしたものを振る舞うアシリパのシーンが映し出される。

この時「はい!チタタプ出ました〜!」と叫びたいのをぐっとこらえた私を褒めていただきたい。

 

井上先生も仰ったが、ゴールデンカムイはテンポの早い漫画だ。これをジェットコースターのようなストーリー展開と表現した。ほんとうにそうだ。1話読んだだけで展開の速さと衝撃の豪速球に、読者は毎回息切れ必須だ。

そんな作品において、食事のシーンだけはとてもコマを割いて丁寧に描写されている。

 

狩った動物の捌き方から調理方法、そして美味しんぼを彷彿とさせる杉元の食レポ(この下りを語っていた先生がとてもニコニコされていたのがかわいかった)

こういった歴史という縦軸の流れに、横の広がりを見せながら展開していく。その結果、単調になってしまう歴史をなぞるだけの流れに幅を見せている。それがゴールデンカムイの魅力のひとつであるとも語った。

 

私はこの横幅には、野田サトル先生の綿密な取材が大きく起因していると思う。

同じアイヌでも、ニヴフ、ナーナイ、樺太、千島アイヌ。それぞれの文化を非常によく掘り下げ、わかりやすく描いている。

そしてアシリパ樺太に渡り、樺太ニヴフ、ナーナイアイヌの文化を知り感銘を受ける。

同じアイヌ民族でも、海を越えればその土地に適応した文化や教訓が存在している。

北原さんのお話を伺った際にも思ったが、アイヌ民族はひとつの国のようだ。アシリパはその多様性と適応性の高さに、アイヌ民族は消滅してはならない民族だと強く思ったのではないだろうか。

これが、キロランケが命をかけてアシリパに見せたかった、「アシリパの知らないアイヌの姿」だ。同じ民族が、異なる風習の中でも手を取り合い民族を守ろうと結束する。そのためのシンボルになるべく育てられたアシリパ

 

白石に至っては、ナーナイのちんぽのお守りに命を救われている。

風習は異なれど、神は人に平等だった。ちんぽ折れちゃったけど。

 

井上先生はゴールデンカムイの素晴らしさを語るために、手塚治虫先生の「シュマリ」と「勇者ダン」を紹介した。

この時井上は、シュマリは虫プロが倒産したあとに描かれた作品だと紹介したが、井上先生ェェェェ(猿叫)!!虫プロって略し方も、そもそも虫プロダクションを存じているのはおそらくオタクだけですよ!(普段周りに通じているのでつい一般人にも略称で語ってしまうオタクあるある)

 

この2作は同じアイヌをテーマにした漫画であるが、井上先生は2作ともアイヌ文化をモチーフにしたファンタジーだと語る。

私はこの2作品とも読んだことはないのだが、ざっと説明されただけでもあまりアイヌ文化を主軸にした作品だとは思えなかった。

むしろアイヌ文化を調味料としてふりかけた作品。そんな印象を抱いた。

 

対してゴールデンカムイは徹底的にアイヌ文化と民族の危機を描いている。

というか、金塊の存在、それを欲する者の存在が、アシリパアイヌ民族の危機に警鐘を鳴らしている。

しかし、ただアイヌ民族の危機的状況とそれをどう回避するかだけのストーリーであれば、ここまでのボリュームはなかっただろうし、奇異、もとい魅力的な登場人物も格段に少なかっただろう。

ゴールデンカムイの魅力のひとつに、強力なインパクトを与えるキャラクターの存在も欠かせないと思う。もう誰が主役でもおかしくないくらい、キャラクターひとりひとりがアクの強いスパイスのようだ。

だがこれがうまく物語にマッチしている。

これだけ個性的なキャラクターが多数登場しているにもかかわらず、胸焼けを起こさない。このどのタイミングでキャラクターを登場させるかの絶妙なバランス、展開、場面の切り替え、横幅のもたせ方、まさに闇鍋である。しかもそれがうまい。闇鍋なのにうまいのだ。

 

私は井上先生の仰った「歴史になぞらえた縦軸のストーリーに丁寧な食事シーンなどの横幅を持たせている」という表現を聞いて、歴史的で一辺倒なストーリーが白米だとすると、横幅はふりかけだと思った。

綿密に調べあげたアイヌの歴史は、とてもおいしい白米だ。それにさらに文化というこれも丁寧な取材の元に作られた上等なふりかけ。これがおいしくないわけがない。白米、何杯でもいけちゃう。

実際、私は無知であったアイヌ文化に興味を持ち、函館まで向かった。アイヌの歴史に触れるため、函館民俗資料館へ足を運んだ。

さして上手くもないふりかけだったり、いくらおいしい白米であっても、ここまでおかわりはしないだろう。

加えてゴールデンカムイには、個性的なキャラクターという、ごはんですよ的なごはんのお供も存在する。

もうね、炊飯器ごと白米食べてる状態。

実際こうしてアイヌに関するシンポジウムに参加するくらいだもの。

そういえば第七師団繋がりで、地元の自衛隊の中にある明治陸軍の資料館にもお邪魔させていただいた。

 

このはちゃめちゃに美味しいごはんのお供によって、私のような無知なひとりの読者が、アイヌを知るきっかけとなったのだ。

多分、シュマリを読んでもここまで行動力を突き動かされなかった。それくらい、ゴールデンカムイにはアイヌを知りたい!と思わせる要素が散りばめられているのだ。

 

そして郷土愛も民族意識もない私は、キロランケやウイルクがどうしてあそこまで必死になってアイヌを守ろうと戦ったのかが、いまいちわからなかった。

だが今回のシンポジウムを拝聴し、文化が消滅することは人間が多様性を理解する機会が減ることなのかなと思ったのだ。

多様性を認めるにはまず、その文化を知らなければならない。知らなければ認めることもできない。

杉元が2度、アシリパの気持ちを理解しきれなかったように、(2度目はフチが見た夢の話でアシリパが不安になった際、我慢しなくていいんだよと杉元が言ったくだり)杉元もアシリパの覚悟を知ることでようやく理解しあえたのだ(このシーンはまだ単行本化されてない)

 

民族だけでなく、日本は今、戦後の単一民族主義から(戦前まで多民族主義であったが、敗戦後に、やっぱ我々は日本に住む日本人だ!という意識が強くなった)様々な人間の持つ特徴を理解しあわなければいけない時代だ。

性差しかり、違ってあたりまえだからこそ、その覆せはしたい差を比較するのではなく、知って、理解する。もういっそ理解しなくてもいいから「そういうものなのだ」と否定せずにいてほしい。というか、個体差なんて否定するものでないしな。

 

野田サトル先生がアイヌ民族の方を取材した際、「かわいそうなアイヌを描かないでくれ」と言われたエピソードがある。

「かわいそう」民族に対し、そう思う感情の根源は差別だと思う。確かに酷い扱いを受けた歴史はある。だが彼ら彼女らを「かわいそう」と哀れむことは、民族の生き方、文化を下に見ていることにも繋がるかもしれない。

アイヌ民族は決して「かわいそう」ではない。

キロランケもウイルクも、アイヌを守ろうとして命を賭した。それを「かわいそう」の一言で済ませてはいけない。だってアシリパはあんなに逞しくアイヌを先導しようと生きているのだから。

そこまで感じさせたのは、やはりこのゴールデンカムイという作品が、アイヌ民族中心で描かれていないからだと思う。

和人が大いに関わることによって、文化の違いがはっきりとし(食べ物、言葉など)そして、知ることができるのだ。

文化を知り、継承していくことで異なるものへの理解を学ぶきっかけにもなる、そう感じた。

 

余談だが、井上先生と岡田斗司夫さんの対談が見てみたいと思いました。