どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

今日は本誌の感想でも尾形の考査でもなんでもない。

ただの二次創作に対する、不定期に浮かび上がる自問。つまらない独白だ。

 

そもそも私は5年?6年?くらい、創作コスプレの世界にいた。

きっかけは「ちやほやされてぇ」

たぶんそれだっけだったかもしれない。

当時はまだ露出の多い写真をアップする人が少なかった。

本格的に版権コスプレをする経済的な余裕も技量を身につける覚悟もなかった私は、軽率にTwitterで評価を得られる露出を選んだのだ。

身体に自信があるわけではなかった。

なので自信のない部分は隠す、鍛えてどうにかなる部分はアップする。

そのうち色んな衣装で、オリジナルの世界観をイメージし、写真に収めるようになった。

まだそれほど人が手をつけていなかった、ガスマスクと露出の多い衣装というカテゴリーを作り、競技人口の少ない土俵に上がれば、必然的に私はそのカテゴリーでは上位に立てると思っていた。

とても浅はかだ。

 

しかし自分の作品は好きだった。

自分の好みを好きなように詰め込んでいる。

風俗店の広告のような、大衆的な「エロい」よりも、格ゲー女キャラに憧れていたのかもしれない。そういう方向性で被写体活動を続けてきた。

 

当然だが、露出をしていればTwitterで簡単に評価がつく。これは肌色面積に対する脊髄反射だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

だが「いいね」を簡単に得られて喜んでいた自分に、冷めてしまった。

そんな、通りすがりの風景に少しの感情の動きを得ることでは、承認欲求が満たされなくなった。

 

数ヶ月、露出をすることを封じた。

その間も被写体として、オリジナルのコスプレの写真をアップしていたが、理由無く露出を封印したことで、当たり前のようにフォロワーが減っていった。

だが私はそれでよかった。

露出を一時的にやめた私を、フォローし続けてくれる人達はどんな人なのか。そこに興味があったからだ。

 

そういう経緯を経て、今度は二次創作の世界に10年ぶりくらいに戻ってきた。

同じ土俵には何人もの創作者がいる世界に。別に競い合う場所でもないのに、SNSの発達により、簡単に優劣の差を見せつけられる。

圧倒的な人気作家と同じ場所で、自分の作品を公開する意味はあるのか?と考えるようになった。

 

どうしても書きたいものがある。

そうやって戻ってきた。創作することがどういう形であれ、私は好きなのだろう。

だが二次創作の世界は、オリジナルよりも常に比較できる要素が多い。

同じカップリングというラインに立った時点で、それは比較要素になる。

他人と比べることに、なんの意味もないことはわかっている。しかしどうしても、可視化された評価は目に入ってしまう。

わかりやすい評価、目に見える評価は嬉しい反面、恐ろしい。

 

それでも書くこと、創ることをやめられずにいる。

自分にも人並にできることがあると証明したいのかもしれない。

何をやっても人並み以下の能力しか持たない私にも、人並みにできるものがあると、教えてやりたいのかもしれない。せめて人でいたいという、悪あがきのようにも思える。

そのためのツールとして創作をしているのなら、今すぐ出ていけと言われるだろう。

でもどうやったって、頭の中に湧いてくるものを、表現し、残すことが止められないのだ。どうしようもなく。

 

そして今まで私は大衆受けから逃げて、競技人口の少ないニッチな世界を求めてきたじゃないか。

それは二次創作だからと言って、覆る趣向ではないだろう。

誰もやったことのない作品を。自分が唯一無二の存在になりたいと、カメラの前に立ってきたのではないか。

だったらそうやって創ってきた作品に、少ないながらの評価があることは、稀有で誇らしいと思わなければいけないのだと。

どうやったって私は、たくさんの人が求めるものを創ることができない。いやたぶん、したくはないのだろう。

商業活動ならば、その考えは通用しない。

ならばもういっそ、自分のどう足掻いても切り離せないひねくれた性分を貫くしか、自分を肯定する道はないのだと、腹を括るしかないのだ。

アンダーグラウンドのもっと下。汚泥の中から生まれるものがきっと好きなんだ。日の当たらない、しめっぽくて醜くて理解に苦しむようなものを公開することで、似たような自分を肯定してくれと願っているのだろう。胃の中で苛立ちが熱くなるくらいに、浅ましいと思う。

 

「何者かになりたい」

私の創作の根底はそこにあるのかもしれない。