どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

206話「願いとエゴ」

杉元がアシリパに言った、ウイルクやキロランケが「おまえが戦わなければアイヌは滅びる」いわゆる刷り込みというか、杉元が言うには洗脳に近い。
しかし杉元はどうだろうか。
彼もアシリパに指摘されたように、自分を救いたいからと口にした。人を殺せば地獄行き。信仰心の薄いアシリパには無関係か問う。

とりあえず顔がこえーよ。
たしかに杉元が言う、アシリパを戦わなければいけない方向に仕向けたようなやり方もわかる。ぶっちゃけ「それな!」って思ったよ。
でもさ、杉元。
今おまえがしてることも同じだからな???

いい機会だと思う。
アシリパがほんとうはアイヌの未来についてどう考えているのかを、はっきりさせるためには。
でもさ、だったら周りの大人があれこれ言うんじゃないよ!ほっといてくれ!って私は思う。
前々からアシリパが大人達の思惑や信念に振り回されることを心配していたが、ここで大岡越前よろしく、エゴとエゴがアシリパの袖をひっぱり合うのが見える。

どちらのエゴも間違いじゃない。
むしろ願いだ。信念であり、信仰だ。
それをどう受け取り、自分の中で精査し、自分の生き方に変えていくかの自由を私たちは選ぶことができる。
彼女がアイヌであろうとなかろうと。いや、アイヌであればこそ。
活動写真という未完成なものに託すより、思いを込めた話を次の世代に聞かせてあげることの方が、よっぽどリアルだとアシリパが言ったように。
文化を伝える手段というものは、必ずしも戦わなければいけないわけではないかもしれない。
だがまだあの時代、戦わなければ守れなかった。
領土であり文化、人種さえ、戦って負ければ奪われ消えた。
活動写真は未発達だった、我々人類のようだ。
今でも世界のどこかで戦争は起きている。けれど、戦わずとも話し合いで折り合いをつける手段を多くの人々が得た。
あのシネマトグラフも、そういった火事を起こし、その結果から改良され今の映画が誕生したのかもしれない。
新しい文明は、何かの犠牲を悔やむ人々の気持ちから生まれたものも少なくはないと思う。

そして、その犠牲を払うのは誰か。
杉元は頑なにアシリパじゃなくてもいいんじゃないかと言う。
その通りかもしれないし、そうではないかもしれない。アシリパだからこそ、アシリパでなければアイヌを守っていくことができないのかもしれない。
けどそれは、ウイルクやキロランケがアシリパに命をかけて戦って守ろうとした記録を伝えたから。たまたまアシリパに白羽の矢が立ったから。アシリパがウイルクの子供であったがために。
杉元はその仕組まれたアシリパの運命が許せないのだろう。
アシリパが、杉元と出会った頃のアシリパでいることで、彼の中の平和だった頃の自分、もう二度と会えない寅次、自分のことを認識してくれなくなった梅ちゃん。取り返せない二人との思い出を擬似的に取り戻すことができると見出している。
これも立派な杉元のエゴだ。

他人に向けるエゴイズムとは、願いなのかもしれない。
コードギアスで主人公ルルーシュは、ギアスという力を使い、他人を意のままに操ってきた。
それを最後にギアスは願いなのかもしれない、と。
コードギアスの話は長くなるので割愛するが(とにかく1回見てくれ)言い方は乱暴だが、人を意のままに操ることには、こうあってほしいという願いが込められているような気もする。

今回のようにアシリパの行く末を脅かすような、脅迫的な物言いは私は好きではないが、否定はしない。あれは杉元の「願い」だからだ。

私たちは多かれ少なかれ、いろんな人達の「願い」に囲まれて生きている。
親が子にこういう人間になってほしいという願い。誰かからの期待も願いのひとつだし、好きな人に振り向いてほしいというのも願いだ。
けれどそれは、必ず受け取らなければいけないわけではない。本人が他人の願いを精査し、どう動くかは自由なのだ。

まだ十代前半と思しき、多様な未来の可能性を持つアシリパが、本人の納得する未来を選んでほしいと私は切に願うのだ。