どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

217話「突撃!となりのサイコパス」

灼眼のスナイパーてそれ…厨二病アイデンティティを敢えて活字にされた今の気分はどうよ尾形?
「どうやら、俺を本気にさせたようだな」
尾形はおもむろに右目に巻かれた包帯をほどいていった。するすると、尾形の手から汚れた細い布切れが落ちていく。
「あれは…」
解かれた包帯からは、青く光る尾形の目が見据えていた。その目でスコープを覗く。その瞬間に尾形はなんの躊躇いもなく引鉄をひいた。弾丸は1000メートル先の杉元の頭部目掛けて飛んでいった…そう思った刹那、弾丸が杉元の頭部にめり込んで…。
…ってところまで容易に想像できる。灼眼のスナイパー。電撃文庫あたりから出そう。

煽り分だけで300文字近く使ってしまったが、今回の本題はタイトルにも使用した、尾形のサイコパス性について。
これまで何度も言われてきたであろう、尾形サイコパス説。
しかし私は、尾形はこの物語の中で本物のサイコパスに近づいていってるのではないかと思う。
サイコパスの気質はたしかにあった。母親を毒殺した時から。
サイコパスの特徴でもある、罪悪感を覚えない。他人の人生において無責任。そして確信的だったのは、あたかも死に際の杉元に寄り添ったかのようにアシリパに語る場面だ。
サイコパスは、他人をコントロールするのがとても上手い。そのためなら相手の信頼を得るために、平気で嘘もつく。

少し話は逸れるが、某新聞のお悩み相談投稿で2番目に多いのが、他人をコントロールしたいという趣旨の相談らしい。(一番は相続問題)
会社のあの人、辞めてくれないかな。
あの隣人、引っ越してくれないかな。
など、人の悩みは他人を意のままにコントロールできれば解決するものが多いのだ。
しかも、他人が自分の思い通りの行動をとってくれさえすれば、自分のストレスは最小限に抑えられる。
会社でパワハラをしてくる上司が、いっそ転勤にでもなってくれさえすれば、悩みはひとつ解決する。自分が行動を起こさなくても、相手が動いてくれれば、悩みの種がひとつ減るのだ。なんてコスパがいい。
しかし、他人をコントロールするなど、どだい無理な話なのだ。だからメンタリストが書いた本が売れる。普通の人は、本や何かから知識を得ない限り、他人を誘導することは難しいのだ。

だが尾形は、それを息をするようにやってのける。
今回も、波止場のおじさんの涙腺に訴える名演技を披露した。
何が日露戦争帰りだ(これは嘘ではないが)何が棒鱈だ(棒鱈に罪はない)何が年老いた両親だ!!それはおまえが殺したんだろうが!!!
…というように、おそらく書体からいって声音もそれらしいものに変えて演技したのだろう。
馬を盗み、服を盗み、あげく無銭乗船ですよ!ここまでしれっとやってのける男に罪悪感があると思いますか?ないです。それはもう本人が言ってたけど。人を殺して罪悪感を抱かない男ですもの。ちょいとお涙頂戴の話をでっち上げて棒鱈で船に乗るくらい、朝飯前なんですよ。
このように、ずーっと無感情に思えた尾形が、他人をコントロールするために他人の感情に訴える。無感情で無慈悲な男が感情的になれば、これはただ事ではないなと信憑性が増すわけだ。ジャイアン、映画版の心理と同じで。
しかし、尾形がいくら生粋のサイコパスであっても、アシリパをコントロールすることには失敗した。
ここで前途した、尾形がサイコパスになっていく過程を記した。と言った話に戻るわけだ。

尾形は一度失敗した。だがまたもや果敢に?挑戦しようとしている。尾形はまだ諦めていない。アシリパから暗号の鍵を聞き出すことを。
ふつう、諦めない?
だってあんた言ってたでしょ?「ああ、やっぱり俺では駄目か」って。にも関わらず、またしぶとく聞き出そうとアシリパを嗅ぎ回っている。
尾形は挫けない強い子!…ではない。罪悪感がないから、なのだ。
罪悪感を抱かないから、また同じことに挑戦できる。要は反省をしないのだ。

ここで私たち読者は試されているのかもしれない。
最近Twitterで、映画「ジョーカー」についてのあれこれを見かける。
終わった人がよく言っている「俺はジョーカーだったのか…」
そもそもバッドマンシリーズを見ていないので、私はジョーカーも見に行く予定はないのだが、推察するに、ジョーカーという凶悪キャラが出来上がるに至った、どうしようもない境遇の物語なのだろう。
そこで見た人は、「これじゃ俺もジョーカーになっちまうわ…」と、彼の不遇の境遇に同情したのかもしれない。
言っとくが、ジョーカーは見ていない。あちこちから聞きかじった感想を元に想像しているだけだ。
だが、私はこれを同情してはいけない気がするのだ。というか、自分も不憫な出生ガチャだったら、凶悪な人間になっていたかもしれない。かわいそうだ。と思うか否か、倫理観を試されているのではないかと。
たしかに出生ガチャ(生まれの境遇の優劣)は、自分が望んだことではなく、生まれた時から勝手に与えられたものだ。
しかしその後の人生をどう生きるかについては、精査できるものではない。「しょうがない」で片付けられてしまっては、あらゆる犯罪が情状酌量になってしまう。

私たちは尾形に対しての裁判員なのかもしれない。
妾の子として生まれ、両親に愛されず、義弟は恵まれて育ち、上司に駒にされ、挙句の果てには狙撃にとても大切な右目まで失った。
こうして挙げると、尾形に対して同情する要素は揃っている。むしろ同情ビンゴ。
だからといって、尾形がこれまで起こした罪を帳消しにできるのかどうか。
きっと正しい答えなど、最後まで見つからないだろう。白黒決着なんてつかなくてもいい。だってこれ、漫画だもん。尾形、実在してないもん。
けれど尾形は作中において、私たちに考える機会を与えた。
彼がこうなるに至ったのは、果たして仕方の無いことなのか。それとこれとは別なのか。私たちは、議論のテーブルに着くことができた。善悪、倫理、それらと育成環境との拮抗について。明確な線引きやマニュアルもない。だがそれらについて、私のように好き勝手語るのは自由なのだ。だって尾形、実在する人物じゃないし。
ジオンは悪か、いやザビ家がすべて悪い。などと議論できるのも、ガンダムがフィクションだからなのだ。
実際の戦争や犯罪は、選ばれた誰かによって判決がくだる。それについては庶民はどうすることもできない。終わったことをあれこれ言っても判決は覆らない。
フィクションであればこその判断の自由。
あなたは尾形百之助を、どう思いますか?