ゴールデンカムイ[特別編]アイヌ語アイヌ文化と東北・東北方言のシンポジウムへ行ってきた
今回、弘前学院大学で行われたシンポジウムで、なんと「漫画史におけるゴールデンカムイ」というタイトルの講演も行われると聞き、足を運んだ。
現在、アイヌ語は絶滅危惧にあるというお話から始まった。
アイヌ文化は文字を持たず、その文化は口伝継承でしか残されないため、アイヌ語が失われるということは文化を残す手段も消えてしまう。
今回のシンポジウムは、日本が戦後、単一民族を強調し今に至るが、文化の多様性を知り、尊重することの大切さを伝えるものだった。
まず北原モコットゥナシさんによる、アイヌ語とアイヌ文化のお話から始まるが、まずこのブログの中心である「ゴールデンカムイ」とアイヌ文化のお話を今回は書いていこうと思う。
北原さんのお話は、またの機会に。
お話してくださったのは、弘前学院大学教授の井上愉一先生。
井上先生は、ゴールデンカムイ2巻のフチと杉元の会話に注目した。
本誌ではこのフチの台詞に日本語訳がなかったという。この頃まだ本誌を読んでいなかった私も驚いた(アニメでは字幕もあったが)
杉元はフチの話すアイヌ語がわからない。
だが少しの沈黙のあと、杉元はフチの言葉をなんとなく理解し、アシリパがフチにとても大切にされていると解釈した。
このシーンから井上先生は、言語が違えど気持ちは通じる。ここに文化の多様性と、多文化を理解しようと試みることが、文化を越え人を理解することに繋がる。先生のお話から私はそう感じた。
何度も読んでいたシーンだが、改めて気付かされた。
しかし杉元はこのあと、言葉の通じるアシリパの気持ちを汲むことはできなかった。
相手の気持ちを理解することは、言語の違い以上の難解さがあるのだ。
さらに井上先生はゴールデンカムイにおいての、食文化の描写の深さに着目した。
ここでスクリーンには、リスの捌き方を懇切丁寧に語り、杉元に脳みその洗礼を与え、上品なシサム(和人)のためにリスの肉を細切れにしつみれ汁にしたものを振る舞うアシリパのシーンが映し出される。
この時「はい!チタタプ出ました〜!」と叫びたいのをぐっとこらえた私を褒めていただきたい。
井上先生も仰ったが、ゴールデンカムイはテンポの早い漫画だ。これをジェットコースターのようなストーリー展開と表現した。ほんとうにそうだ。1話読んだだけで展開の速さと衝撃の豪速球に、読者は毎回息切れ必須だ。
そんな作品において、食事のシーンだけはとてもコマを割いて丁寧に描写されている。
狩った動物の捌き方から調理方法、そして美味しんぼを彷彿とさせる杉元の食レポ(この下りを語っていた先生がとてもニコニコされていたのがかわいかった)
こういった歴史という縦軸の流れに、横の広がりを見せながら展開していく。その結果、単調になってしまう歴史をなぞるだけの流れに幅を見せている。それがゴールデンカムイの魅力のひとつであるとも語った。
私はこの横幅には、野田サトル先生の綿密な取材が大きく起因していると思う。
同じアイヌでも、ニヴフ、ナーナイ、樺太、千島アイヌ。それぞれの文化を非常によく掘り下げ、わかりやすく描いている。
そしてアシリパも樺太に渡り、樺太、ニヴフ、ナーナイアイヌの文化を知り感銘を受ける。
同じアイヌ民族でも、海を越えればその土地に適応した文化や教訓が存在している。
北原さんのお話を伺った際にも思ったが、アイヌ民族はひとつの国のようだ。アシリパはその多様性と適応性の高さに、アイヌ民族は消滅してはならない民族だと強く思ったのではないだろうか。
これが、キロランケが命をかけてアシリパに見せたかった、「アシリパの知らないアイヌの姿」だ。同じ民族が、異なる風習の中でも手を取り合い民族を守ろうと結束する。そのためのシンボルになるべく育てられたアシリパ。
白石に至っては、ナーナイのちんぽのお守りに命を救われている。
風習は異なれど、神は人に平等だった。ちんぽ折れちゃったけど。
井上先生はゴールデンカムイの素晴らしさを語るために、手塚治虫先生の「シュマリ」と「勇者ダン」を紹介した。
この時井上は、シュマリは虫プロが倒産したあとに描かれた作品だと紹介したが、井上先生ェェェェ(猿叫)!!虫プロって略し方も、そもそも虫プロダクションを存じているのはおそらくオタクだけですよ!(普段周りに通じているのでつい一般人にも略称で語ってしまうオタクあるある)
この2作は同じアイヌをテーマにした漫画であるが、井上先生は2作ともアイヌ文化をモチーフにしたファンタジーだと語る。
私はこの2作品とも読んだことはないのだが、ざっと説明されただけでもあまりアイヌ文化を主軸にした作品だとは思えなかった。
むしろアイヌ文化を調味料としてふりかけた作品。そんな印象を抱いた。
対してゴールデンカムイは徹底的にアイヌ文化と民族の危機を描いている。
というか、金塊の存在、それを欲する者の存在が、アシリパにアイヌ民族の危機に警鐘を鳴らしている。
しかし、ただアイヌ民族の危機的状況とそれをどう回避するかだけのストーリーであれば、ここまでのボリュームはなかっただろうし、奇異、もとい魅力的な登場人物も格段に少なかっただろう。
ゴールデンカムイの魅力のひとつに、強力なインパクトを与えるキャラクターの存在も欠かせないと思う。もう誰が主役でもおかしくないくらい、キャラクターひとりひとりがアクの強いスパイスのようだ。
だがこれがうまく物語にマッチしている。
これだけ個性的なキャラクターが多数登場しているにもかかわらず、胸焼けを起こさない。このどのタイミングでキャラクターを登場させるかの絶妙なバランス、展開、場面の切り替え、横幅のもたせ方、まさに闇鍋である。しかもそれがうまい。闇鍋なのにうまいのだ。
私は井上先生の仰った「歴史になぞらえた縦軸のストーリーに丁寧な食事シーンなどの横幅を持たせている」という表現を聞いて、歴史的で一辺倒なストーリーが白米だとすると、横幅はふりかけだと思った。
綿密に調べあげたアイヌの歴史は、とてもおいしい白米だ。それにさらに文化というこれも丁寧な取材の元に作られた上等なふりかけ。これがおいしくないわけがない。白米、何杯でもいけちゃう。
実際、私は無知であったアイヌ文化に興味を持ち、函館まで向かった。アイヌの歴史に触れるため、函館民俗資料館へ足を運んだ。
さして上手くもないふりかけだったり、いくらおいしい白米であっても、ここまでおかわりはしないだろう。
加えてゴールデンカムイには、個性的なキャラクターという、ごはんですよ的なごはんのお供も存在する。
もうね、炊飯器ごと白米食べてる状態。
実際こうしてアイヌに関するシンポジウムに参加するくらいだもの。
そういえば第七師団繋がりで、地元の自衛隊の中にある明治陸軍の資料館にもお邪魔させていただいた。
このはちゃめちゃに美味しいごはんのお供によって、私のような無知なひとりの読者が、アイヌを知るきっかけとなったのだ。
多分、シュマリを読んでもここまで行動力を突き動かされなかった。それくらい、ゴールデンカムイにはアイヌを知りたい!と思わせる要素が散りばめられているのだ。
そして郷土愛も民族意識もない私は、キロランケやウイルクがどうしてあそこまで必死になってアイヌを守ろうと戦ったのかが、いまいちわからなかった。
だが今回のシンポジウムを拝聴し、文化が消滅することは人間が多様性を理解する機会が減ることなのかなと思ったのだ。
多様性を認めるにはまず、その文化を知らなければならない。知らなければ認めることもできない。
杉元が2度、アシリパの気持ちを理解しきれなかったように、(2度目はフチが見た夢の話でアシリパが不安になった際、我慢しなくていいんだよと杉元が言ったくだり)杉元もアシリパの覚悟を知ることでようやく理解しあえたのだ(このシーンはまだ単行本化されてない)
民族だけでなく、日本は今、戦後の単一民族主義から(戦前まで多民族主義であったが、敗戦後に、やっぱ我々は日本に住む日本人だ!という意識が強くなった)様々な人間の持つ特徴を理解しあわなければいけない時代だ。
性差しかり、違ってあたりまえだからこそ、その覆せはしたい差を比較するのではなく、知って、理解する。もういっそ理解しなくてもいいから「そういうものなのだ」と否定せずにいてほしい。というか、個体差なんて否定するものでないしな。
野田サトル先生がアイヌ民族の方を取材した際、「かわいそうなアイヌを描かないでくれ」と言われたエピソードがある。
「かわいそう」民族に対し、そう思う感情の根源は差別だと思う。確かに酷い扱いを受けた歴史はある。だが彼ら彼女らを「かわいそう」と哀れむことは、民族の生き方、文化を下に見ていることにも繋がるかもしれない。
アイヌ民族は決して「かわいそう」ではない。
キロランケもウイルクも、アイヌを守ろうとして命を賭した。それを「かわいそう」の一言で済ませてはいけない。だってアシリパはあんなに逞しくアイヌを先導しようと生きているのだから。
そこまで感じさせたのは、やはりこのゴールデンカムイという作品が、アイヌ民族中心で描かれていないからだと思う。
和人が大いに関わることによって、文化の違いがはっきりとし(食べ物、言葉など)そして、知ることができるのだ。
文化を知り、継承していくことで異なるものへの理解を学ぶきっかけにもなる、そう感じた。
余談だが、井上先生と岡田斗司夫さんの対談が見てみたいと思いました。