どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【ゴールデンカムイ】21巻「文化の意味と道しるべ」

久しぶりの感想ブログ。

本誌を毎週読むことをやめてから約四ヶ月。

しかし21巻はまだ私が本誌を読んでいた頃の話数しか収録されていないため、感想が重複しているかもしれない。まあおさらいというか、備忘録的な感じで、201話から211話まで改めて感じたことを書いていく。

加筆修正もされ、記憶が曖昧だが台詞が大きく変わっている部分もあるように思えるので、新たな解釈が生まれたような気もするし、同じようなことを思っていたかもしれない…。

 

201話

生米を噛めるおばあちゃん。アイヌのおばあちゃんは歯が丈夫だったのかしら。ポリ○ントいらず。

尾形の放ったロシア語から、過去にも同じ言葉をかけられていたことを覚えていた鯉登。ロシア語の発音って、英語よりも聞き取りづらいのに、それを後生大事に覚えていた鯉登、実は賢いのでは?とすら思ってしまう。

おそらく他のロシア語よりも、侮蔑を込めた言い方が印象に残ったのか。

私も普段、手鏡持ってないわ。汚い顔ですまん。

 

202話

ヴァシリの逆襲。

「私は死ねなかったぞ」

この一言が引っかかる。死ねなかった。殺しそこねた。殺したと思っているだろうが、生きている。

であれば、頬をぶち抜いた時点で尾形はそのまま死体を確認せずに立ち去ったのだろうか。

スナイパーの集中力は20分~40分とされているらしい。

だが彼らはほぼ一晩中、意識を極限まで集中させていた。帰路で勇作の幻覚を見るほど憔悴しきっていた。

であれば、相手の身体に弾が貫通した手応えを得た時点で、確認せずに引き返したとしても不思議ではない。たとえ慎重な尾形であっても。

ということは、尾形はヴァシリが生存していることを知らないのだ。

かつて私は、彼らが裏で繋がっているのではないかと推察していたが、まったくお門違いであった。

あえて生かしたのではなく、単純に殺し損なった。と考えられる一言だ。

 

203話

ヴァシリの絵のうまさと杉元の絵心のなさ。

ヴァシリが手配書の裏に尾形を描いていたことで、キロランケにはすでに興味を失っているとわかった回。

というか、ヴァシリにとって母国のテロリストであったキロランケから興味関心を奪うほどの尾形の存在も妙であるが、ヴァシリは祖国愛よりも、狙撃手としてのプライドが優位に立ったのだろう。

そしてソフィアは脱ぐ必要があったのか。

初めて女性の乳首が露になった伝説回かもしれない。お色気要素がなければ、乳首描写もさほど反感を食らわないとわかった。

 

204話

クズリ捕獲のため、山に入る前に火を起こして気合いを入れるアシリパに、嫌味な物言いをする杉元。

火起こしの儀式をまじないの類と捉えていた杉元に、山での多くの危険に対し気を引き締める役割だと話すアシリパ

これまでゴールデンカムイで紹介されてきたアイヌの風習や儀式には、祈りといった意味合いよりも、理論的にそれを行っているように思えるものが多いなと感じた。

それらはアイヌ民族がそれぞれの土地で暮らす生活の知恵に結びついている。過酷な北の大地で生き抜くための知恵。それが文化であり、生きるために残さなければならないものだと、アシリパは感じ始めているように見えた。

 

205話

まだ205話なんだけどみんな大丈夫?まだまだ続くけど。

 

活動写真で亡き両親の姿を目にするアシリパ

しかしフィルムの中に残る母が、どんなに表情豊であろうと、父、ウイルクが語った母の話のような温度を感じることはできなかった。

ここでアシリパの、様々な思いが渦巻いていた

意思が、泥濘から粘土ぐらいに固まり始めたと思われる。

アイヌ文化は残さなければいけない」

しかしそれはあくまでウイルクやキロランケから植え付けられた、いわば、降ってきた雨のような意思であり、アシリパ個人の中から湧き上がったものではなかった。

が、ここにきてはっきりと「残さなければいけない」理由にアシリパ自身の指先が触れたような回だった。

まったく関係ないが、ジュレールくんのモデルはあんの監督だろうか…。

 

206話

しかし、自ら監督したアイヌの昔話も、結局はどんなに新しい技術を用いても、口伝による温かみまでは伝えられないと悟るアシリパ

これは技術に委ねず、生き証人のようにアイヌ民族が語り継がねばならない文化であると気づく。

余談だが、現在アイヌ語は絶滅危惧言語の大変危険な分類に属されている。

そのためにも、巻末で記載されていた北原次郎さんら、アイヌ文化の研究と伝承に力を注いでる方たちがいる。

そのおかげで私も先日、大変貴重で興味深いアイヌ関連のお話を伺うことができたのだが、そこで特に印象深かったのは、日本は戦後、単一民族になったというくだりだ。

戦前の日本は、アイヌ民族はじめ、琉球など様々な民族が生活し、多様性のある民族であった。しかし戦後、というか戦時下で日本は、共通の敵を前にし団結力が高まった。

 

アメリカのオクラホマ州で行われた、ロバーズケイブ実験 https://www.blog.crn.or.jp/report/02/153.html

でも似たようなことが検証されている。

対立していた二つのチームが、トラブルを与えられると協力し始めたという結果だ。

 

このように日本は戦後、日本人という単一民族への意識を強くし、今日に至る。

しかし多様性を認め、理解し合わないことが、どれほど生きづらいことかを、最近は問題視するようになった。

 

アシリパはおそらく、民族や文化の衰退の危険性を理屈ではなく肌で感じていたと私は考えた。

 

207話

入れ墨が一枚でも欠けていたら…。

最近になって私は、この入れ墨人皮はすべて揃えなければいけないのか疑問に思った。

23人の囚人に暗号の鍵となる入れ墨が彫られ、それは皮を剥ぐように仕組まれていた。そうすると必然的に、暗号を解くためには、入れ墨を彫られた囚人、すべての人皮、もしくは写しを手に入れなければならない。そしてそれらは繋ぎ合わせることで意味が生まれる。

果たしてほんとうにそうなのだろうか。

バラバラに散らばったピースは、繋ぎ合わせることで完成する。私たちはなんの疑いもなく、そう理解していた。

だが、すべて揃うことが絶対条件なのか。

もしかしたらすべて揃うことで、意味の無い入れ墨があるとわかるかもしれない。すべての人皮の中に、違和感のあるものが含まれていると気づくのは、すべてが揃ってから。という仕組み。そしてその逆もありうる。すべての人皮が揃うことで、ひとつだけ正解があると。

もしかすると、すべて揃えるという思い込みこそが、ウイルクの仕掛けた暗号のひとつなのかもしれない。怪我をした狼が群れに戻れないように。

 

208話

鶴見と土方の頭脳戦。

今回は、有古が偽物を持って戻ってくることまで考えていた、土方に軍配が上がった、のか?

最終的にこの二人の騙し合いになることが予想されるが、鶴見の狡猾さに土方の冷静さの駆け引きが見ものである。

しかし金塊は元々どちらのものでもないのだ。

金塊を利用する権利は、どちらにもないのだ。

 

209話

やっと終わりが見えてきた…。

ここね、何度読んでも泣ける。

家族のいないインカラマッとチカパシ。家族を捨てた谷垣が、作戦とはいえ家族として過ごし、家族のような絆が芽生え、そしてチカパシにほんとうの家族を与えた。

21巻はね、アシリパの気づきと杉元との解釈の一致がメインにも思えるけど、私的には谷垣とチカパシの別れがもうサビなのよ。

チカパシのような子供にとっては過激な旅だった。遭難しかけたり、犬泥棒に反撃されそうになったり、子供が背負う必要のない危険を存分に経験した。

けれどチカパシの中ではどれも素敵で温かい思い出として残っている。少年にとって、大きな成長を遂げた大冒険だったのだ。

故郷のコタンで、同じ民族でありながらも孤独を感じていたチカパシは、谷垣やインカラマッとの旅をすることは処世術でもあったのかもしれない。信頼に足る大人を見分ける術も持たぬ(いくつぐらいなんだろ)子供が、自ら居場所を選んだ。その居場所から、ほんとうの家族を見つけることができたのだ。

そして谷垣は大切な二瓶の銃をチカパシに託す。「もう支えてあげられない」これからはこの銃を一人で扱える大人になってくれとの願い。それを見届けられはしないけど、きっとチカパシなら立派に勃起してくれるだろう。

別れは終わりではない。引き継ぎなのだ。継承なのだ。

エノノカと家族になり、また再会してくれる展開を望まずにはいられなかった。

 

210話

ハートフルな前話から一転。鯉登の表情が曇る。

バルチョーナク、満鉄。

このワードにより鯉登の中に疑惑の仮説がむくむくと湧き上がる。

月島、まさかの失言。何も信じられなくなった鯉登は、尾形の言葉を軽んじるどころか、そちらの方が真実なのではないかと、あれだけ心酔していた鶴見にまで牙を向けようとする。

そう、過度な相手への羨望は、たった二つの単語でいとも容易く反転してしまうのだ。

「まさか、鶴見中尉がそんなことを…」

尾形なんぞの言葉に翻弄されるはずはない。これまでの鯉登を見ている限りでは、そう一蹴しただろう。だが、彼は実際に誘拐され、その言葉を耳にしているのだ。自分が体験した、覆さざる事実は、狂気とも思えるほどの忠誠心にすら亀裂を入れた。

一瞬の疑惑は、和紙に墨を落としたようにじわりじわりと広がっていく。そうするともう止められないのだ。白よりも黒が勝ってしまうのだ。

人間、希望的観測よりも、不安要素の方が気になってしまう。

いついつ大地震が起こる、年金がもらえなくなる。そして今話題の例のウイルスの情報も、トイレットペーパーが無くなるといったデマにすら踊らされてしまう。人間は身を守るために、不安を煽る情報をより信じてしまうのだ。

そして不安の種が芽を出し、枝葉がこれまでの経緯になぞって伸びていく。そこで成熟した木は、鯉登の怒りの果実として実った。

月島は尾形が幸次郎を殺したことも知っていた。その頃から、この鶴見劇場を観覧していた。

一体、どんな気持ちで眺めていたのだろうか。

いつから鶴見劇場をかぶりついて観たいほどの興味に変わったのだろうか。

そもそも一度は死んだ命も、鶴見によるもので、彼はずっと鶴見の演者としての役割を生きてきた。いや、生きてきたと言えるのか。演者の役割を脱ぎ捨てることはできるのだろうか。

いっそこの狂気を楽しむことでしか、彼は自分自身に救われる道はないと思っているとしたら。幸福の尺度は他人には測れないが、どうかラストまで間近で見届ける、一番の観劇者であってほしいとも思う。

 

211話

鶴見の脳漿炸裂チューイの描写は、大幅加筆によるもの…だったよね。初めて見たもの。本誌で読んでたらインパクト強すぎてブログに書いてた、書かないはずはないじゃない。

あの汁、あんなにドッバドバ漏れて大丈夫なもんなのだろうか。脳汁大サービスにもほどがある。

さて損傷した前頭葉から興奮すると漏れるという本人談だったが、

前頭葉は、人が行動を開始し、または抑制する機能を司ります。

 さらに、生活をする上で必要な情報を整理、計画して処理・判断することも前頭葉の役割です。

 加えて、自己を客観的に捉えることや感情を持つこと、言葉を発することができるのも、前頭葉が機能しているからです。』

https://www.wirenh.com/koujinoukinousyougai/zentouyou/ から引用

 

そして前頭葉を損傷した場合、感情を抑制することが困難になるとも書かれていた。

医学的知識さっぱりなので、ここに書かれていることから推察する限りだが、ついに金塊を解く鍵を目の前にし、狡猾な性格である鶴見の感情がブレブレになった。と考えた。

普段から鶴見を見てきた部下は、この変動ぶりにたいそう驚いたのも無理はない。脳汁の量に驚いたのなら、我々読者や杉元たちとて同様だ。だが、鶴見の部下たちは一様に、他の誰よりも冷静さに欠けた鶴見の不敵な笑い声と直情的な物言いに、目の前の人物が自分たちの知る鶴見中尉であるかを疑いすらしただろう。汁だけにな!

 

そして月島や鯉登の件を考えると、菊田や宇佐美など、他の部下も綿密に篭絡させられた可能性がある。

相手を手中に収めるために、長い年月と手間を惜しまなかったことを知る部下たちからすれば、月島の思うように「甘い嘘」でアシリパを取り込もうとはしなかった鶴見の言動に違和感を覚えるのは当然だ。

しかし鶴見はハナからアシリパを、倉庫に監禁

しておく算段だった。

焦っているのだろうか。

月島や鯉登のように長い年月をかけて作動する鶴見タイマーを使用している暇などないのだろうか。

土方が間者を利用し自分に迫ってきたことで、丁寧に飼い慣らす時間はないと悟ったのか。

 

いずれにせよ、白石が杉元を改心させ?アシリパの相棒としての立場に戻ったことは、私個人としては嬉しい。

ほんとうに主観なのだが、これまでの杉元のように、他人、特に身近な人間に自分自身が救われる望みを預けているのは、とても危険なことなのだ。

もしこのまま杉元が幸せだった頃の自分をアシリパの中に植え付けたまま、元の自分に戻れなかった場合。杉元はアシリパを恨んでしまう可能性が高い。

要は、かつての幸せだった頃の自分の理想化=アシリパ。の図式だと、その責任をアシリパに抱かせることとなるからだ。

自分の幸福を他人に委ねる。これは自分が理想に近づくための責任を、他人に委ねることと同じだと私は考えているからだ。

アシリパアイヌのために戦うことを選んだから、俺は元の自分に戻れなかった」

などと、言い出しても不思議ではない展開になるやもしれん。

あくまで個人、個人としての対等さはない。もっときつい言い方をすれば、依存しているのだ。

 

しかしアシリパは、杉元が思うような、金塊争奪から手を引くか、戦うかの極論でものを考えてはいなかった。

彼女はアイヌ文化を残す必要性を感じ、さらにそのためには戦う(和人との戦争)以外の道もあるのではないかと考え始めた。

 

文化や民族の多様性のためにアイヌの存続を願うならではの、選択肢の多様性をアシリパは読者に与えたのかもしれない。

彼らは利害関係が一致した相棒だったのだ。

それがユクの中での干し柿の一見以来、アシリパを偶像化してしまった。

杉元とアシリパは、お互い足りない部分を補うパートナーであり、どちらかの行動を否定するではなく、共に最善の道に向け試行錯誤するための共同体なのだ。

杉元が干し柿を食べていた頃の自分に戻れるかどうかは、言ってしまえばアシリパには関係ない。そういう思いもあるだろうが、それは杉元自身の心持ちの問題であり、アシリパが不殺の信条を貫きアイヌ民族存続と無関係な暮らしに戻ったとしても、それで救われたと思うのなら単なる思い込みでしかない。

幸福だった過去に縋る気持ちは誰にでもあるかもしれない。だが時間が逆行することも、戦争が起きなかったことも、寅次が死んだことも、戻ることはないのだ。

「あの頃」はもう永遠に戻らない。

だとしたら杉元はの取るべき行動は、この先、新たな幸福を見つけるしかないのだ。

 

長々と各話数で以前ブログに書いてなかったであろう感想をまとめました。

今回はそれぞれの心理を勝手に想像してみた部分が多かったが、改めて各々に根付く感情が根深いなと感じた。

余談だが、最近、犯罪心理学を噛じるようになって、この漫画に登場する狂気的なキャラクターの心理を紐解きたくてたまらない。

もちろん尾形に至っても、まだまだ掘り下げる要因がたくさんあるので、機会があればこれからの尾形の動向で、心理を読み解いたものを書ければいいなと思っている。

 

ほんとうにクソ長くなってしまったが(これでもだいぶ端折ったのよ)、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

スター、とても励みになります。