どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【尾形 深掘り回】尾形にとって勇作とはなんなのか

同じ父親を持ちながら、人生が大きく違えてしまった尾形と勇作。

尾形は勇作が屈託なく、他の隊員の目を気にすることなく「兄様」と呼び親しみを覚えていたことを、疎ましく思っていたかもしれない。

いや、疎ましいという感情よりは、尾形が幸次郎に語った「面食らいました」という表現から考えると、率直に尾形は勇作の態度に「なんなんだこいつは」と訝しんだといった方が近いかもしれない。

 

さてこの勇作だが、死後、尾形の前に姿を現した。

当然だが亡くなっているので、実体ではなく尾形の見た幻覚として考えるのが自然だろう。

なんせ尾形が見た勇作は、尾形が撃ち抜いた頭から血を流し、当時着ていた軍服姿のまま犬の代わりに橇を引いているのだ。不自然極まりない。

問題なのは、なぜ尾形がこの時勇作の幻影を見たのかだ。

実際に見たという表現も適切かどうかは不明だが、こともあろうに勇作は「兄様、寒くはないですか」と尾形に話しかけている。勇作に話しかけられた、と尾形は錯覚したのだ。

 

私は幽霊の類をあまり信じていないので、オカルト的な解釈はこの際しないでおく。

そうなると、この時の尾形は、極寒の中、極限まで意識を集中し(前回のブログでも書いたが、本来ならスナイパーの集中力は最大でも40分らしい)心身共に相当疲労した状態だった。

ヴァシリの生死も確認せず(これも前回のヴァシリが、私はまだ生きているぞという台詞から、尾形がヴァシリの生死を確認していないととれる)朦朧とした状態で、アシリパたちの所へ戻ろうとした。その時に見えた幻覚である前提で考える。

 

極度の疲労と発熱により、尾形は意識障害を起こしていたと推測する。

私は専門家ではないため、ここからの記述はネットで得た知識から想像しただけにすぎないので、そのへんは生ぬるく読んでもらいたい。あくまで素人の妄想ぐらいに捉えてくれ。

 

ざっくり説明すると、幻覚とは「対象なき知覚」であり、実在はしないがはっきりとした感覚がある。状態のことを指すらしい。

そして主に幻覚は「誰かが自分の悪口を言っている」や「誰かが私を見ている」など、自分にとって恐怖や不安を感じさせるものが多いイメージがある。

それを前提として考えると、尾形が勇作の幻覚を見てしまったのは、心のどこか、もっと科学的に考えると脳の大脳皮質に蓄積された記憶のバグ。なのではないかと。

余談だが金縛りのメカニズムも脳のバグだと専門家は言っている。

尾形の無意識の中に居続ける勇作の存在は、撃たれた直後の姿なのだ。尾形は勇作を殺したことについて、ほんとうのところはどう思っていたのか。あれほど「殺した相手に対して罪悪感をなどない。みんな俺と同じだ」と宣言した尾形は、ひょっとすると母親を殺した時に抱くはずの罪悪感が湧かなかったことに、違和感があったのかもしれない。だから「みんな俺と同じだ」と、自分だけがおかしいのではないと思いたかったのではないか。

 

ここで一度、尾形が母親を殺めたきっかけに焦点を当てる。

尾形は母親も、勇作も、愛情という曖昧なものに白黒はっきりとした色をつけたくて殺している。

愛情があれば父は死んだ母に会いに来てくれるのでは?

勇作のことも、疎ましいとは一言も書いてはいない。ただ尾形が勇作に対して抱いたのは「ああ、これが両親から祝福されて生まれてきた子供なのか…と、心底納得した」という思いだ。

つまり愛情のあるなしが与える影響を、実にドライに捉えているのだ。それが自分に関わっていることでありながらも。

愛情がなければ死んでも会いに来ない。

愛情があれば高潔な人物に育つ。

尾形は、自身の存在を自分とすら捉えていないのかもしれない。

そして愛情の是非の対象はとうとう自分へと向けられる。尾形は自分すらも、愛情という曖昧なものを試す興味の対象としていたのだ。

 

勇作の死によって自分に愛情が巡ってくるのかどうか。

結果は残念ながらNOだ。

 

少し本題から外れるが、11巻103話「あんこう鍋」(今気づいたがこの漫画、ノンブルがないな)「祝福された道が俺にもあったのか…」の1ページ。

尾形の背後から光が差してるのだ。

この光、火鉢の横にあった棚の上にあるランプからのものである可能性は低い。

4ページ前の2コマ目。

火鉢にあたる(こいつよく火鉢の前を陣取るな。寒がりか)尾形の背後右に、幸次郎が横たわる布?の角が見えることから、幸次郎は右斜め後ろにいると思われる。そしてこの時の尾形の影は、真後ろにある。

つまり件の場所、幸次郎の目の前に尾形が来た場合、ランプの光は尾形の背後、左斜めから当たるはずなのだ。

しかし「祝福された〜」の尾形にあたる光は、完全に真後ろからだ。しかもあの小さなランプの光とは思えないほど、後光のように差している。

 

もうこの際、尾形の背後を照らす光が室内のランプなのかはどうでもいい(!?)

私が伝えたいのはこの光が何を意味しているかなのだ。

その答えは次のページを捲ると判明する。もう一度言うが、ページを捲った先に繋がっているのだ。

 

夕日だか朝日だかに照らされている尾形少年のコマだ。

夕日か朝日かの点については、私の妄想だと夕餉の食材にしたく鳥を撃ったことから、夕日なのではないかと。

でも光の差し方や山と空の境界が白んでいることや、夕焼けならもっと濃いトーンを上空に重ねるのでは?との憶測から朝日にも見えなくはない。

この疑問は色のついたアニメを見るとはっきりするのだろうが、私はゴールデンカムイに関してはこの監督を信用していないので参考資料としては除外する。

まあ朝日でも夕日でもいいや。

とにかくこの太陽の光が、前ページの尾形の背後を照らす光なのではないか。

 

そして尾形少年の目線だ。

このコマだけを見ると、どこ見てんだこいつ。となる視線。左斜め上を見ている尾形少年の先には何があるのか。

前ページの父親に語りかける成長した尾形だ。

つまりこの時の尾形は、思い出の中の少年が自分を見ている。と思っているのだ。

 

この構図に気づいた時、私は度肝を抜かれた。

敢えてこのシーンを見開きにせず、ページを跨いでいることで、時間の流れを表しているのだ。(改めて言うが完全に私の妄想だ)

 

この撃ち落とした鳥を持っていけば、「今日はあんこう鍋をやめにして、百之助が捕ってきてくれた鶏鍋にしましょう」と、幸次郎の思い出に取り憑かれた母親は、自分の方へ愛情を向けてくれるかもしれない。

そんな期待と希望をまだ抱いていた時の尾形少年の姿。この太陽の光は、祝福への希望だったのだ。

尾形少年は成長した尾形に視線で語りかけている。

「あなたは祝福されて生まれてきましたか」と。大人になった自分へのメッセージだ。

そのメッセージや希望は、その後すぐに打ち消された。

そして、尾形少年は愛情というものの存在を確かめるために、殺鼠剤で母親を死に至らしめ、幸次郎の愛情を試した。

その希望の光が、祝福も愛情も自分には存在し得なかった尾形の背中を照らしているのだ。正面ではない、背後を、だ。

そのため、尾形の表情は逆光により暗くなっている。光と影の表裏一体、祝福されず両親から愛情を与えられなかったと確信できた尾形には、希望の光が遮られた影が落ちる演出。

この2コマの意味に気づいた時、(何度も言うが私の勝手な妄想で作者の意図は不明だ)野田サトル、やっぱすげぇよ!!と、感銘を受けたのだ。

 

 

話がだいぶ長くなったが、この尾形が愛情もなければ祝福もないと確信したことによって、尾形はナーバスになることはなかった。ここが一般的に考えると共感し難い部分でもある。

 

だがここで話を戻して勇作の幻覚に触れると、尾形は自分の中に愛情を与えられ祝福された存在である勇作を取り込んだのではないかと考える。

尾形が父親の愛情を試すために勇作を殺したのなら、その時点で勇作にはなんの価値もなくなるはずだ。

残酷な言い方をすると、実験の結果を得た尾形にとって、実験材料であった勇作はもう不要だ。しかし尾形の深層心理の中に勇作は居続けているのだ。

おそらく尾形は勇作をコンプレックスとして捉えつつ、自分の欠けた部分は勇作のような祝福された人生を得た高潔な部分だと考えているのではないか。

自分にはない、得られなかった勇作というコンプレックスを、尾形は意識の深い部分に宿した。もしかすると、自分が手をかけたことにより、一層根強く宿っているのかもしれない。

それは何も贖罪からの意識ではない。

尾形は自称、人を殺すことに罪悪感を抱かない男だ。

罪悪感がないからこそ、殺したことに対しての後悔の念はない。実際には引鉄を引くまではそう思っていた。

しかし熱にうなされた尾形が見た夢なのか回想シーンなのかは、はっきりしないが、勇作を撃った瞬間、振り向き尾形を見た勇作に、尾形は少しはっとした表情をしている。元々表情がわかりにくいキャラなので、目に見えて驚いている感じはないが、明らかに人を殺しても罪悪感のない人間の顔ではない。何かに気づかされた顔をしている。

 

そして次のページには、尾形を見下ろすアシリパのコマ。この時、尾形は勇作とアシリパを重ねたのだ。

考えるに、アシリパに対しても勇作と同様に不殺の信条を試したのは、勇作を撃った瞬間に尾形は罪悪感に似たものを感じたのかもしれない。

だからもう一度、試してみたくなった。

つまり、母親を殺した時に抱かなかった罪悪感を正当化したかったのだ。

だから尾形の中には唯一、殺した時に罪悪感を生んだ勇作がずっと居続けているのだ。

勇作は尾形にとっての不可侵領域のようなものであり、ずっと心に居座るわだかまりなのではないか。

瀕死の状態で勇作が尾形を目的地まで先導してくれた幻覚を見たのも、たとえ尾形に撃たれたとしても尾形を助けようとする高潔なイメージが強烈に尾形の中に根付いているからだと思われる。

それこそが尾形のコンプレックスなのだ。

勇作の存在が、母親を殺しても罪悪感を抱かない倫理観に欠けた自分に相反するものであり、異質なのだ。

尾形は自分の欠けた部分を正当化したく、勇作を撃った時に抱いた感情さえも嘘だと証明するために、アシリパを利用した。

 

おそらく尾形は共感が欲しいのかもしれない。

自分が異質であることを否定してくれる証拠を得るために、他人の倫理観を試すのだ。

勇作が尾形に執拗に迫っているのではない。尾形が勇作の人間性固執しているのかもしれない。勇作を血を分けた兄弟だと思っているのは、尾形も同じなのかもしれない。

父親に「何かが欠けた」と言われ、満足そうに笑った尾形は、人とは違う自分を肯定されたと感じたのだろう。しかし心の中にはずっと、相反する存在の勇作がいるのだ。自分を肯定したい尾形を否定し続ける、勇作が。