どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【尾形 深掘り回】尾形と新平とオイディプス王

新平と聞いて「誰だっけ?」と思った人のために説明しておく。

単行本6巻、茨戸編に登場する、にしん番屋と賭場を仕切る日泥一家の息子である。

意気地がなく額に三日月の傷痕のある、あの男。尾形に

「親殺しってのは…巣立ちのための通過儀礼だぜ」

と諭された男と言えばもうバッチリ思い出すだろう。

 

そんでもって、オイディプス王も誰なんだという話だが、彼はギリシャ神話に登場する人物だ。

そしてなぜこのオイディプス王の話を持ち出したかと言うと、オイディプス王にまつわる神話の柱となるが「父殺し」だからだ。

 

そもそもここに行き着いた発端は、たまたまTwitterのTLに流れてきた「親殺しは通過儀礼という神話」という一文に、「あれ?親殺しってのは巣立ちのための通過儀礼って台詞、もしかしてギリシャ神話からなの?」と思い、即ググッたところ出てきた神話に驚いたのだ。

 

ざっくり説明すると、オイディプスは実の母親を愛してしまう。なので、父親を亡き者にすれば母親と結ばれると考えてしまう。

そんな時、オイディプスは太陽神アポロンから神託(予言)で「おまえ、父親を殺すことになるぞ」と告げられ、故郷を出ていく。

道すがらにあった三叉路で、向こうから来た男と「どけ、どかない」の押し問答になり、オイディプスは相手の男をうっかり殺してしまった。

この相手が実は父親だったのだ。

細かい部分は諸説あるので気になった人は各々ググってくれ。

ちなみに私が参考にしたうちの一つはこれだ。

https://novella.works/oedipus

 

この物語から、三叉路はこの先の人生の分かれ目、自らの行く末を阻む存在は父親。つまり父親を殺すことによって今後の人生への道が開ける。という意味合いらしい。

要は、親を払い除けることで初めて自立の道を歩くことができる。

このことから「精神的な親殺しは青年の通過儀礼」と言われるようになった。

 

さて、ここまでで新平とは二つの共通点が挙げられる。

 

1つは、母親を愛してしまったこと。

新平の場合は実の母親ではなく、父親の妾であったが、父親が愛した女に惚れてしまうという点では同じだろう。

 

2つ目は、父親殺し。

これも新平が直接手を下した訳ではないが、最後におそらくこれまで反抗的な態度を見せなかった新平が、父親に思いの丈をぶつけた。

これも言わば、精神的な父親殺し。つまり親子の呪縛からの解放と見てもいいだろう。

もしかすると尾形が手を下さなくても、このあと取っ組み合いになり、新平が物理的に父親殺しの通過儀礼を果たしてしまったかもしれない。

この親子のやりとりを見ていられなくなった尾形が「何モタモタしてやがんだ」と引鉄を引いた。のかもしれない。

「早く俺の予言(予想)通りに殺せ!」と、梁の上でヤキモキしていたのだろうか。せっかちだな、尾形。まあ隣の物置が燃えてるから、はよ終わらせろという気持ちもあったかもしれん。

 

いずれにせよ「親殺しは巣立ちの通過儀礼」という言葉を告げた尾形は、予言でないにしろ日泥親子の関係性を知って、梁にスタンバっていた。

それ故に、尾形が神託者であるかのような、逆光を背負っているような描写。

太陽神アポロンになぞらえていると言われれば、そう見えなくはない。

 

妾という単語に意味ありげに反応したり、尾形は自分と似た境遇の人間や、自分の欠けた部分のメタ的存在である勇作のような人間に、興味を抱くのかもしれない。

それは、それらの人間が自分と同じような行動をとるのかを、観察ないし試してみたいからなのか。

このオイディプス王の神話を調べていたら、おもしろい記述を見つけた。

心理学者、フロイトによると男児は最初の異性である母親を手に入れたいと望む」

http://textview.jp/post/culture/20854 より。

幸次郎が尾形の母親に対して愛情があれば、死に顔を拝みにくるかもしれない。という発想は、自分ならそうするという理念から発生したものなのか。

そのへんはまだよくわからないので、機会があれば調べてみようと思う。