【ゴールデンカムイ妄想回】勇作とプロパガンダ
プロパガンダと聞くと、だいたいの人が悪いイメージを持っていると思う。
他人を説き伏せて洗脳する。という意味では、恐れるに値する手法なのだが、そもそもプロパガンダは私たちが生活する上でも必要なものなのだ。
いつものように「専門用語、ざっくり解説」を行うと、プロパガンダは相手に理解してもらうための手段なのだ。もっと簡単に言えばプレゼンだ。
このブログも、感想以外の深堀回などはプロパガンダに値するかもしれない。
こういう見方もあるという、読者に対する訴えでもあるし、それに共感や理解を示した人がいたならば、プロパガンダは成功と言えよう。
話を戻して、勇作がなぜプロパガンダかと思ったのかは、他の兵士を自らが偶像になり先導し、士気を高めることに成功したことによるものだ。
このプロパガンダに勇作はほとんど関与していない。だが、弾に当たらぬ神話の童貞を貫き、剣を抜くこともせず、およそ30kgもある旗を担いで先導したことは、他の兵士に自分を信用させるための手段としてはプロパガンダとも言えよう。
プロパガンダには大きく分けて2種類ある。
ひとつは、感情的プロパガンダ
もうひとつは、理性的プロパガンダ。である。
勇作の場合はどちらかと言うと感情的プロパガンダに近いと思われる。
理性的プロパガンダは、感情の首輪である理性を緩めることで成立するが、そもそも戦争に参加している時点で理性というものはほとんど無いと思われる。
理屈抜きに、ただ敵の兵士をひとりでも多く殺す。その目的のためだけに動いているのなら、もはや兵士はすでに国にプロパガンダされ、自らの思考で判断してはいない。
ただ、敵兵士を殺さなければいけない。それだけなのだ。
そして感情を更に躍動させるために必要なのは、理性的なうったえではなく感情なのだ。
勇作は自らが偶像もしくは軍神となり、極端な言葉を使うと洗脳したのだ。
「勇作殿がいれば弾に当たらない」
そんなこと、現実的にあるはずはないと、今の私たちなら理解できる。
勇作がfateのマシュのようなどデカい盾でも持っていない限り、そんな発言が出てくるはずはないのだ。
そう考えると、勇作は兵士のプロパガンダとして仕立てあげられ、自らもその責務を全うしなければいけない存在なんだと認識してしまったのではないのか。
過去回想シーンで勇作は尾形に「自分に旗手が務まるのか」などと、弱音を吐いていた。
あれは敵の銃弾の中を先行することへの恐怖ではなく、自分が兵士を洗脳できるに値する人物であるのかに対する弱音だと思う。
自分の行動によって、兵士は士気を高めてくれるのか。もし自分が旗手として兵士たちに認められぬ存在であれば、兵士たちを死線へ誘導することなどできない。そういう不安からであろう。
しかし勇作は見事、兵士たちに偶像として崇められることに成功した。
それにより、偶然にも勇作のそばにいた兵士が弾に当たらず進軍することができた。
要は勇作は兵士たちの感情論を強化できたのだ。感情により行動している兵士たちに、より強い感情を与える存在となった。
勇作は、プロパガンダに仕立てあげられ、その結果、プロパガンダとして成功した。
一種の宗教じみた行いにも見えるが、これがおそらく当時の「戦争」というのもだったのであろう。
戦うことを説得により理解させ、個々の判断を揺るがせる、または思考を停止させることでより強い兵士を作り出す。
国民が一丸となって「この戦争で自国は勝利しなければいけない」と思い込むことで、勝利はの道は拓かれる。
だが、多くの者は戦争に勝つと何が起こるのか。までは深く理解していないだろう。
それは二百三高地での戦いで勝利はしたものの、自国の兵士の遺体も回収されず、賠償金も得られず、結果、第七師団は何も得られなかった。それにより、鶴見中尉による新たなプロパガンダが生まれる結果となった。
不満感情の飽和に火をつけた鶴見中尉。
対して理性的に民族の存続を説くアシリパ。
人の上に立つ者としての相反するプロパガンダは、果たしてどういった着地点を描いてくれるのだろうか。