どぶろく

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【尾形深掘り回】罪悪感の正体

尾形がアシリパに向けて口にした「自分の中に殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

たしかに私もそうだと思う。

たとえば殺人を犯す際、様々な理由があると思うが、もう殺したいほど憎い相手を殺した場合、罪悪感を抱くのだろうか。

「殺したいほど憎い相手」これは例えば、自分の身内や大切な人を殺された復讐だったり、自分を限界まで苦しめた相手に対する報復の類が動機だったとすれば、罪悪感どころか「してやったり」と思うのではないか。

 

では尾形が口にした「罪悪感」の正体はどういった感情に起因するものなのか。

 

先日、罪悪感はに関するおもしろい意見を耳にした。


岡田斗司夫ゼミ#326(2020.3.15)「最強の人間関係操作法、教えます」 完全版 メンバー限定 (3/15~5/24 公開)

たしか有料メンバー内での発言だった気がしたので、気になる方はメンバー登録してみてくれ。

 

簡単にこの放送で触れられていた罪悪感についてを説明すると、罪悪感とは次にその行為を行う際の前払いなのだそうだ。

 

この動画では視聴者からの人生相談にも回答しているのだが、ついアンチコメントをしてしまい、後日罪悪感に苛まれる相談者に対し、岡田さんは「罪悪感は次にアンチコメントをする際の前払い」だと答えていた。

 

もっと身近な罪悪感について例えると、寝る前にどうしても小腹がすいてお菓子なりを食べてしまったとしよう。

食べている最中は欲求が満たされているが、食べ終わったあと、もしくは翌朝に罪悪感に襲われ自己嫌悪に陥った。という経験はないだろうか。

しかしこの翌朝に罪悪感を抱くのなら、夜中にお菓子など食べなければいいのだ。

しかしその瞬間、夜中にお菓子を食べたい!という衝動に抗うことができなかった。翌朝に襲われる罪悪感のことなど、この時は頭にはないのだ。

そして罪悪感の前払いというのは、次回もあるかもしれない就寝前に何かを食べてしまう行為への、罪の前払いなのだ。

ここで罪悪感で自己嫌悪するという行為は、未来の欲求に抗えなかった自分に対しての謝罪を前もって行っている、ということになる。

 

そして尾形の言う「人を殺した罪悪感」というのも、殺した瞬間に抱くものではなく、殺した後に訪れるものと解釈していいと思う。

もっと単純に言えば後悔である。

おそらく尾形曰く、自分がその時、そうすることが最善だと思って行った行動には、後悔など存在するはずがない。むしろ、自分がするべき正しい行いとして手を下したことに、なぜ後悔なんぞする必要があるのか。

こういった思考回路なのかもしれない。

 

もしも尾形が、深夜に小腹がすいてカップラーメンを食べたとしても、翌朝、罪悪感に苛まれることはないだろう。

あの時どうしても食べたいと思ったから食べた。

彼の中にあるのは、自分の行動に対する責任を放棄しない。という、一見すれば信念のようなものすら感じる。

 

しかし人を殺すというのは、夜中にカップラーメンを食べる背徳感とは規模が違いすぎる。

だが尾形にとっては、深夜のカップラーメンだろうが、人を殺めることだろうが、どっちにしろ自分の欲求や判断に対して後悔の念を抱かない。つまりそれはあの時俺が正しいと思ってやったこと。として、「なぜ俺はあの時あんなことを・・・」などと、振り返り反省する思考自体がないのかもしれない。

 

ここで前途した、罪悪感は前払いという話だが、尾形は自分の行為に対し、常にそれは正しいことだと一貫しているのだ。

だからもし次に同じ行為をしてしまったとしても、後悔を前払いする必要がないのだ。だって「あ~またやってしまった」と後悔することがないのだから。

 

要約すると、尾形の中では人を殺すことも、その時の最善の判断なのだ。

しかし、進撃の巨人でよく問答されていたように、その時の判断が正しかったかどうかは、未来でしか証明されないのだ。

翌日は後悔するかもしれないが、長い目で見たとき、一年後や数年後の未来で「あの時の判断は間違っていなかった」と思わされることは、日常でもある話だ。

 

罪悪感を抱かないということは、自分の言動が一貫して正しいと信じている。もしくは自分の言動に責任を持っている場合のどちらかではないだろうかと思う。

 

「殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

は、確固とした信念、いわば、それは自分の正義だと思っていなければ言えない言葉かもしれない。

尾形は、自分の行動に迷いがなく、また他社の理念には影響されない人間なのだろう。

自分に疑いがない男。

常に正しさが揺るがない男。

そして尾形の中にある「正しさ」は、万人にも共通するものだと信じたいのだ。

だから「みんな俺と同じはずだ」という発言が生まれる。その言葉をわざわざ他人に向けるのは、「同じであってほしい」という願いなのかもしれない。

尾形はずっと、他人や社会に理解されないことに孤独を感じていたのか。自分が間違っていると感じた瞬間がどこかにあって、その違和感に彼はどんな思いで過ごしてきたのだろうか。

 

【追記】

おもしろい話を思いついたので追記。

脳科学実験のひとつで、巨大な脳波検知器みたいなのに入るやつがあるんだが(説明が雑ですまんが気になる人はググってくれ)被検体は装置の中に入り、研究者から「好きなタイミングで左右どちらかのスイッチを押してください」と言われる。

すると被検体は自分のタイミングで左右どちらかのスイッチを押す。この時仮に右のスイッチを押したとしよう。

しかし被検体が「右を押そう!」と思う前、つまり被検体が右のスイッチを押す前から、研究者には被検体が右のスイッチを押すことがわかっているのだ。

 

この研究から、人間は何か行動を起こす以前に(おそらく一秒にも満たない時間)脳が指令を下しているのだとわかる。

「喉が渇いたな」と水を飲む以前に、すでに脳が我々に水を飲めと指令を出しているのだ。

ではこの「喉が渇いたな」という、水を飲むために用意された思考はなんなのか。

水を飲むための後付けの理由なのだ。

そう、人間は何らかの行動をとった際、自分自身に理由を与えている。

 

このことを尾形の言う「人を殺すことへの罪悪感」に当てはめると、戦時下で敵兵士を殺す際、引鉄を引く瞬間、軍刀を振るう瞬間、「敵国の兵士だから殺さなければいけない」「今殺さなければ自分が死ぬ」といった理由を発生させる。

そういった行動をとった自分への言い訳だ。

そして罪悪感が生じるのは、殺すに値する理由を自分自身に与えておきながらも、「それはほんとうに正しい選択だったのか」という納得できない感情が発生するからなのだろう。

自分の行動を正当化させる理由と、客観的に考えた場合の善悪。この双方が入り混じることでジレンマが生じる。

これが罪悪感の正体なのかもしれない。

 

しかし尾形に罪悪感がないとすれば、尾形の中には行動に対する理由さえあればそれ以外の感情が入り込むことがないのだ。

要するに客観的に捉えた際の善悪というのは、世間や社会から見た時に、それは正しく見えたかどうかに起因する。とすれば、尾形には社会やもっと細分化すると他人からの善悪のジャッジはどうだっていいのだ。

 

なぜ人は世間や社会の中において自分の行動の正当性を考えるのかは、私たちは社会の一員であるがゆえに、この世界で起こした行動には多かれ少なかれ責任を持たねばならないからだ。

だが、尾形には社会やそれによって作られた倫理観に責任を持たない。

これはサイコパスの特徴のひとつでもある。

尾形サイコパス論についてはまた別の機会に詳しく掘り下げていこうと思うので、この話はここまでにする。

 

全然関係ないんだが、今YJ半年間無料後悔やってるじゃん?

私は本誌連載を読まなくなった11/28号も無料部分に入ってるわけよ。

無料公開分の三月末まで、休載をカウントしなければ16話ある。

読むべきか。

読んだら感情の大洪水で脳みそが氾濫を起こし、睡眠時間を削ってここに氾濫した感情の水を流水せねばならなくなるんだが・・・。

16話かー。

私の体力と時間が今、リモート会議してる。