どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【ゴールデンカムイ妄想回】アシリパは男ではだめだったのか

昨日までナディアを見ていて気づいた。

男性と女性が主人公の作品だと、だいたいその二人は恋愛関係になる。

ナディアもそうだし、有名どころで言えばラピュタにもその気配はある。

ダーリンインザフランキスや鋼鉄城のカバネリなど、私が今パッと思いつくだけでも、男女主人公の作品は恋愛関係ないし、その傾向を想像させるような距離感や関係性の描写が多い。

おそらく視聴者も「ああ、この二人くっつくんだろうな」「作中では思いを告げる描写はないけど、きっと両思いなんだろうな」などと、なんの抵抗もなく受け入れてしまいがちだ。むしろそう考えた方が自然なくらいだ。

 

しかし、ゴールデンカムイの主人公、アシリパと杉元は異性別のダブル主人公でありながらも、恋愛的要素を感じさせる描写は一切ない。

主人公ではないが、アシリパ銀魂の神楽に近いキャラだ。あくまで主人公の銀さんの「相棒」であり一緒に暮らしていながらも、二人の恋愛関係を想像させるような描写はない。読者もこの二人にはそういった感情はないだろうという気持ちを抱くことが自然となっている(二次創作であれこれ想像するのは別。原作から恋愛的要素を想起させる表現があったかないかの話である)

 

読者のイメージの中になんとなく刷り込まれていく「ああ、この二人はそういう関係になるな」という、無意識の意識とでも言うのだろうか。

途中、杉元はアシリパに庇護欲のような気持ちを抱いていたが、結局は「相棒」に戻った。

あくまでこの二人は対等な立場なのだ。

上も下も、恋も愛もない、異性であり年齢も違うが至極対等な関係性なのだ。

 

では、私たち読者がこの男女の主人公を恋愛の括りで納めずに見られるのならば、アシリパは男でもよかったんじゃないだろうか。

そのほうが相棒という間柄としては、しっくりくるのではないだろうか。

 

なぜアシリパは女でなければいけなかったのか

仮に男だったとしよう。

父親はアイヌ民族存続を願い、山で戦えるよう育てられた少年。

父親と金塊の関連性、自分が民族を率いる覚悟。

ざっと今のアシリパに課せられた課題は、男の子だったらどう受け止めるのだろう。

 

「父さん・・・くそっ!父さんを殺した尾形も、父さんを裏切ったキロランケも許さねぇ!!」

的な展開になるんじゃなかろうか。

一応、青年漫画誌に連載されているわけだし。

同じヤンジャンで連載しているキングダムなんて、やれ親友の敵だ天下統一だと燃え上がっている。それはそれで好きなストーリーでもあるし、持ち味なのだが。

要は実際の男女差ではなく、読者がイメージしている男女のキャラクター性は、男は復讐や野心に熱くなりやすい。対して女は冷静に状況を俯瞰で見た上で判断できるし、できることなら戦いは避けたい。

そういった、仮に同じ物語でも主人公の性別が違えば、まったく別の分岐が発生する。

特にゴールデンカムイはバトルもあるが、一番に重きを置いているのはアイヌ民族がどう生き延びていくか、だとかなぜ衰退していくのかという、民族の存続的な問題なので、戦争をして勝ち取るというルートならば、負けた側は勝者に下り、結局は和人に差別された歴史を違う形で再現することになってしまうのだ。

 

ゴールデンカムイで重要なのは、戦って領土を勝ち取ることではない。

いかにして多様性を認め合うか、その方法は果たして存在するのかという物語であると私は思っている。

これはナウシカに近い。

ナウシカも戦いを好まず、自らが先頭に立ち人類とオウムたちとの共存を願う。

よってナウシカは(ここから原作の話になる)クシャナやその父であるウ”王などの共感を得て、新しい共存世界の一歩を踏み出すまでに至った。

戦わない姿勢が、多くの戦争狂の心を掴んだ。

戦わずして限りなく平和に近い、または平和へと向かうような道を探る提案ができるのは、やはり女性キャラならではだと思う。

 

なのでゴールデンカムイナウシカルートに持っていくためには、アシリパは女である必要があったのだろう。

「どうしたら残せるだろうか」

立ち止まって最良の選択はないかと考えることができるのも、女性キャラならではではないかと思う。

もちろん例外もあるし、戦いを好まない男性キャラもいるだろう。碇シンジとかもそうだ。

でも碇シンジは戦いたくない!と駄々をこねているのを、ミサトたちにハッパをかけられる側だった。

ナウシカのように、戦わずして良い道を模索し、周りの者たちにも影響を与え先導していくキャラは、やはり女性の方が見ている側がしっくりくるのだ。

 

現実では性差に対し平等性を良しとされるが、私たちが見ているフィクションの中には、それぞれの性別が与えるイメージとしての役割は大きいだろう。

そのイメージが現実の「男はこうあるべき」「女はこうだ」という重圧で改変せざるを得なくなってしまうのは残念だなと思う。