【尾形深掘り回】蒼穹のファフナーから尾形の祝福を考える。
YouTubeで無料配信され始め、15年の時間を跨ぎ更に今、注目を集めている「蒼穹のファフナー」
Netflixの奴隷である私は、Netflixの人工知能に勧められるままに視聴し始めた。そもそもなぜ今までこれを観ずに過ごせてきたのか。それくらい、私の好みにフィットしていた。やるな、Netflix。
さて本題は、この「蒼穹のファフナー」に登場する敵の名前が「フェストゥム」であること。
フェストゥムとはラテン語で「祝祭」を意味し、作中ではフェストゥムは人類にさらなる高次元への移行を与えよう、それが「祝福」であると語られる。
祝福というワードに敏感な私は、作中で描かれたほんとうの「祝福」と尾形が口にした「祝福」についてを重ね合わせた。
ネタバレを含むが、作中では最終的にフェストゥムが与えようとした、感情や意識を同化させ一体化し無に帰すことで、人類は新しいフェーズへと移行する。それがフェストゥムがもたらす祝福である一方で、人類は対話を通して人々がわかり合う個人と個人の多様性を主張した。
そしてフェストゥムの決まり文句である「あなたはそこにいますか」の問い。
これがストーリーが進むにつれ「そこにいる」とは「自分の居場所を保持している」と解釈される。
つまり、一体化を拒否した人類側の祝福は、自己の存在肯定であり、その場所に自分が存在していいと自身が思えることにあると、私は解釈した。
この流れと尾形の語った「祝福」を照らし合わせる。
祝福とは、自分の居場所、所属を明確にすることならば、それは他人からも「あなたの居場所はここだ」と認められる必要がある。
集団の中で、個としての肯定を得るには、その集団に必要とされなければいけない。
いわば、集団の中においての役割を見いだせるかどうかが、祝福に繋がるのではないだろうか。
前回も触れたが、尾形の行動には相手に自己の存在を認めてもらおうとする様子が窺える。
これはいつもの私の妄想なのだが、生まれて初めて所属する家族という集団の中で認められなかった。祝福された道はそこにはなかった。
勇作を撃ち殺しても、尾形が祝福される世界線への分岐にはならなかった。
この時尾形にとって、祝福は与えられるものではなくなった。祝福された道の可能性、それは勇作を亡き者にすることで生まれたはずだった。どちらかの二択だ。父親が勇作の代わりに自分を愛おしくなるか、そうではないかの賭けだ。
だがその祝福トライアルでは、結局、祝福された道への分岐は絶たれた。
だが尾形の失敗は、対話による祝福の獲得を放棄したことだ。
消去法で可能性を浮上させたのだから、そう易々と人の愛情というものは変化しないのだ。
それから尾形は手土産や、アシリパとの対話という手段を学んだ。
すべては、それらは自己を受け入れてもらう手段として、有効かどうかの試行である。
「蒼穹のファフナー」のフェストゥムも、ニールという人工知能のコアが、人間の感情などを学習していく。
尾形もまた、未発達で、人類においてのほんとうの祝福を知らない存在なのだ。
「蒼穹のファフナー」は最終的に同化することで意思の疎通をはかるではなく、対話することで相手の意思を理解しようと試みることの大切さ。それが人間であるとの主張。それにより生まれる、自分の所在。
「私はここにいる」
フェストゥムが用いる「我々」という同化した個体を指す三人称ではなく、私という個人は「我々」の中に所属しながらも、個人であるという主張。
それが人類が選んだ「祝福」なのだ。
とにかく蒼穹のファフナー、めちゃくちゃストーリーと設定が凝ってて唸らせる作品なので見てほしい。
ただあちこちで評価されているように、救いのない作品であることも、一応忠告しておく。