【ゴールデンカムイ感想回】死の足音と命の産声を聞け【23巻】
ゴールデンウィーク期間中にヤンジャンアプリで無料公開されていた話数までは感想を書いているので、その話数が収録されている23巻について今更なにを思うことがあるのかと。
いやあるんだよこれが。
まず尾形があたりまえの顔して土方陣営に帰って来てることには先のブログでも触れたが、尾形、こいつ息をするように嘘をつきやがったぞ。
のっぺら坊が流れ弾で死んだと。
流れ弾っつったなおまえ。どの口が!流れ弾と?おまえが撃ったんやないか!!
でもね、尾形が嘘をつくのも当然っちゃ当然なんだよな。
だってあの時、網走監獄ではのっぺら坊をアシリパに引きあわせることが最重要任務で、みんなそのために動いてたわけじゃない。
それを尾形が、そんな最重要人物を、撃ち殺したとなればどうなるかは火を見るより明らかなわけで。
尾形だっていつでも単独行動で凌げるような、スーパーソロ戦士ではない。加えて狙撃の腕も格段に落ちている。そういえば打ち損じたあとの「ははっ」ってのがなくなってるね。
「ははっ」って状況じゃないものね。
トップステータスである狙撃が素人同然になって笑っていられるほど、尾形も奇人ではなかったんだ。
そんなスーパー狙撃手としてのスキルを失った今、土方陣営に衣食住(衣はそのへんから盗んだが)の世話になるためには、情報を提供するしかないのが現状だ。
尾形はキロランケとアシリパと共にした土産話以外にここに世話になれる理由がないと判断し、自分に不利な情報は敢えて話さなかった。
でもそれだって土方が杉元と再会したらバレる話だが、そうなったらまた得た情報を手に鶴見のところで厄介になるのだろうか。
いや、尾形自身、鶴見の恐ろしさを痛感しているような台詞を吐いたから鶴見の元へ情報を手土産に転がり込んでも、土方のように迎え入れてくれる可能性がないことは重々わかっているだろう。
しかしこの「尾形がのっぺら坊を撃った」ことで、アシリパに復讐という概念が植え付けられたとしたら…と考えた。
ここからは私のいつもの妄想だが、尾形がウイルクを撃った意図が、アシリパに不殺の信条を試させるための行為であったとするなら、それによりアシリパには今まで描かれなかった「同族を殺された憎しみ」という感情が芽生えたのではないだろうか。
アシリパが覚悟を決めたのは、ウイルクとの思い出、暗号の鍵となるエピソードに付随している感じはあるが、それを後押し、というかトリガーになったのは、父親を殺した相手に一度は弓を向けた、その感情なのではないか、と。
民族、それも父親のあだを討つ感情が生まれ、さらに民族意識が高まったのではないか。
それを強調させるために、鶴見と宇佐美の回想が差し挟まれていたのかもしれない。
人を殺せる兵士に必要なのは愛だと。戦友を、祖国を守りたいという集団の一員であるが故に、その集団を脅かす者を殺しても罪悪感を抱かない。むしろこれは自分たちが帰属する集団を守る、もしくは繁栄させるための善い行いであったと思わせるための、団結力に近いものを生み出した。
それな民族においても通ずるものがあるのではないか、と。
たとえ地獄に堕ちようとも、守らねばならぬものがあると気づいたアシリパの決意の一部に、親を殺した相手に対する憎しみが少なからず関係していると思う。
それに対し、谷垣とインカラマッの子供の誕生。
和人とアイヌの間に生まれた新しい命が、どう関わってくるのか。
和人との戦争に備えて蓄えた金塊を巡り、多くの血が流れたが、ここに、和人とアイヌの民族の垣根を越えた生命は、何をもたらすのか。
和睦とはいったいなんなのか。
それまで犠牲になった命を蔑ろにして手を取り合うことが可能なのか。
奪った者への憎しみを手放すことなのか。果たしてそれをして、手を取り合うだけで確執は消えるのだろうか。
犠牲者を理由に争うことは正義なのか。
私には到底答えが見つけられない。
憎しみどころか同胞への愛が同じ人間を殺すことを肯定してしまうのなら、人間はとても愚かでしかないと思えてしまう。
忠誠心という名の愛と、民族を越えた愛の先に生まれた未来。
白石の名案により金塊に近づいた杉元たちだが、謎を手にした者はおそらくその秘密の責任も負わねばならないだろう。
果たして金塊はいったいなんのために用意されたのだろうか。
あとね、私はもう家永が表紙になれるチャンスは23巻しかないと思ってたんだよ。
でもこれも完璧にはなれなかった家永らしいなと思えば 。いや、表紙になった家永、見たかったなあ。