どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【ゴールデンカムイ感想回】26巻 出生ガチャ

久しぶりにまた感想ブログを書きたくなったのは、26巻があまりにも濃い内容だったからだ。

25巻の土方と杉元の戦闘シーン、非常にわくわくする組み合わせだったが、個人的にコマ数が少ないと感じた。欲を言えばもっと動作のコマを増やして欲しかった。というのも、樺太でのキロランケとの戦闘シーンも、盛り上がる場面であるにも関わらず動作と動作のコマが省略されている感じがした。読んでいて「あれ?これ誰の手?」や「今なにが起こった?」と読み返す部分があり、バトルシーンとしては迫力に欠けているなと思った。私の読解力の問題かもしれないが。

 

そしてもっとも言及したかったのが杉元の台詞。

「誰から生まれたかじゃなく、どう生きるかだろ」

これさ、たぶんめちゃくちゃ心に響くはずの台詞なのよ。もう終盤の出来事に大きな意味をもたらすはずの台詞なの。

アシリパにも尾形にも、谷垣も鯉登も月島にも、生まれた環境、親の立場に人生を左右されたキャラの多いこの物語の確信を突く言葉なのになぜかまったく心に響かねぇ。

というのも私自身「いや出生ガチャ、めちゃくちゃその後の人生に影響出るで」と思ってる人間なので、この台詞が響くどころか反感を覚えたのだ。

だって子供は親を選べないってよく言うじゃん。

例えば金持ちの家に生まれたら与えられるものだってそうじゃない家庭の子供に比べたら多いわけで。それを努力で払拭してる人もたくさんいるけど、その努力は実家が太ければしなくてもいい努力だったわけで。

もちろん逆も然りで、呪術の野薔薇ちゃんの友達は家がお金持ちってことでちょっとした迫害を受けてた。

それも含めて「誰から生まれた」ってのは人生をけっこう左右する要因でもあると思う。

 

しかし読み終えて一日考えてみると、杉元だってもしお父さんが結核じゃなければ梅ちゃんと結婚していたかもしれないという「誰から生まれたか」に人生を左右されたひとりなのだ。

ということはあの台詞はアシリパさんに向けての意味もあるし、自分自身への慰めの意味もあったんじゃないかと思える。

そうでも思わなければ杉元はきっと親を恨んでしまいそうだった。しかしお父さんだって好きで結核を患ったわけではない。なにもかもが抗えない偶然によって引き起こされたものである。

自分の意思が介在しない状況、人間がこの世に生を受けることだって自分の意思ではない。たまたま生まれてしまったにすぎないのだ。

そしてその時に配られたカードは実に不公平でリセマラなんてものができるはずもなく、与えられたカードを使いこなすのは自分がどう生きるかによる判断次第なのだ。

 

そういった意味をもつ台詞だとしたら、ひねくれた私も理解できる。共感はできないが、たしかに産まれるというのは理不尽さを多く含む場合もある。

しかしそれをどうこう言っても始まらないのだ。

だから選べる道が限られていても、狭い選択肢の中からどれが自分の進みたい道なのかを考え選ぶ。それもまたスフィンクスの謎を解いたオイディプスの神話に登場する「親殺しは巣立ちへの通過儀礼」に通ずるのかもしれない。

親の呪縛、環境を打破する=親殺しとするならば、三叉路を塞いだ老人(父親)を殺し、道を進んだオイディプスのように、自分の人生を自分のものとして歩くために必要なのは、どう生きるかに対する明確な答えを導き出すことなのかもしれない。