【尾形深掘り回】目に見えるものがすべてではない【ゴールデンカムイ無料期間一気読み】
久しぶりの感想です。
そもそもこのブログの発端は「尾形、おまえ何がしたいんだ」って動機から始まったのだから、答え合わせをしなければいけない。
つっても、さんざん狂ったようにあれこれ考えた尾形百之助というキャラクターの本意という的をひとつも射抜けなかったわけでして。まあそれも深層心理の部分が描写されていなかったっていう言い訳じみたことでお茶を濁したい。
単行本でじっくり読みたいので、アプリ版はサラッと読んだのだが、「そうきたか!」というのが率直な感想だ。
しかも土方や牛山があんなかっこいい死に様を見せたあとでの、尾形、おまえだけ「私ごとでございますが…」じゃねぇか。
自分が抱いているはずがない罪悪感に気づかされた過去の自分との問答シーンは、テレビ版エヴァ第二十五話「終わる世界」での、文字やキャラクターが質問を投げかけ、パイプ椅子に座った当事者がそれに答えるシーンを彷彿とさせた。改めてその回を見直すと、質問を投げかけているキャラは当人の心の中にいるキャラだった。そこに当てはめると、尾形の心の中にいる勇作、つまりは尾形の印象としての勇作だったのだろうか。すごくうまい描写だなと思った。
現実でもたとえば友人、知人において、それらが自分をどう捉えているかは、自分の中にある彼ら彼女らのイメージでしかない。
「あの人はきっと私を嫌っている」というイメージが固まると、事実がどうであれ「あの人は私を嫌っているに違いない」と固定されるのと似ている気がする。
そして皆がアシㇼパに襷を託しながら志半ばに死んでいく、それも誰かの譲れない正義によって命を絶たれていく中で、尾形だけは誰にも死を与えられなかった。
アシㇼパの不殺の信条を打ち砕いたが、それでも彼を死に至らしめたのは自分自身だった。
あの左目を撃ったのは、カウボーイビバップファンからすると、片目が義眼であった主人公スパイクの「この目(義眼では無い方)は過去しか映さないのさ」を彷彿とさせた。
過去の自分を省みるうちに、自分は愛情のない親から生まれた欠けた人間であるというアイデンティティが揺らいだ。しかしどこかで、愛情は流動的であり多面的であるという事実、つまりは尾形が愛情を欲しかった瞬間に向けられなかったという事実だけが、ほかの瞬間に向けられていた愛情をなかったことにしてしまった。
たしかにあったはずの愛情や祝福というものは、存外別な側面から送られている場合もある。しかしそれを認めてしまえば、祝福されなかった子というアイデンティティが崩壊してしまう。
このジレンマに私は気付かされたのだ。
ここからは少し重い私の経験談になる。
かつて私も母親から「腹の中に戻したい」「刺し違えてもいい」と言われたことがあった。
その時私は、親とはいえ、無償の愛は絶対ではないのだと悟った。
それが尾を引き、私も尾形のように親に愛されなかった子供として悲劇のヒロインのような振る舞いをした時もあった。いや、この回を読むまでそう思っていた。
だが、母親の言葉はその時の感情のひとつにすぎず、それは本心だったと思うが、思い返せばまったく愛されていなかったわけではないと気づいたのだ。
そう、尾形も鳥をとってきても母親に見向きもされなかった瞬間だけを、無情と感じ、それ以外の母親の愛情から目を背け、その瞬間の感情のみが自分に向けられたすべてだと思い込んでいたのだ。
私は以前もここに書いたと思うが、尾形が狙撃手の命とも言われる目を失ってからの復活劇に「おまえだけは生きることを手放さないでくれ!」と、大袈裟だが自分の人生を託したような気になっていた。
しかし尾形の最期を見て「私は過去の魔物に捕らわれず生きるよ」と、人生を託すどころか手を振り別な道を歩もうと思ったのだ。
いやこれね、ぶっちゃけて言うと「しくじり先生」みたいなもんなのよ。
出世ガチャとかいろいろ言ってきたけど、大変理不尽なことに生まれはガチャでしかない。配られたカードで組んだデッキでデュエルするしかないのよ、人生は。別に決闘しなくてもいいんだけど。
たしかに「あんたが待ち望んでいたものはこんな薄っぺらなものだった」と証明してみせるのもまたデュエルよ。けどね、それで自分のゴールが自分によって覆された時の絶望たるや否や。しかもそれを最後まで勇作さんによってもたらされたものだと、自身に追い討ちをかける結果となってしまった。あのメンツの中で唯一、誰にも殺されなかったというアンチテーゼのようなものを感じて、なんとも業が深いなと思った。
更に言うと、これは完全に私の憶測で批判もひとつやふたつじゃ済まないと思ってるけど、ヴァシリ戦での異常なまでの集中力の高さ。実際にスナイパーの人が、狙撃はいかに狙い所を待つかという全ての意識を対象に向け、生理現象さえも後回しにするエピソードを聞いた事があるが、それを踏まえても突出していると感じていた。
そこに勇作の幻影。過去との問答。
おまえ、メタンフェタミンをキメすぎたのでは?
と、思うことでこれらがすべて腑に落ちる。
ちなみにメタンフェタミンはゴールデンカムイでは二階堂でおなじみ?の、まあ、覚せい剤の原料だ。そこから第二次世界大戦のあたりで、疲労がポンのヒロポンが生まれるわけだが、飛び抜けた集中力と幻覚という二点を納得させる材料はメタンフェタミンがいちばんに頭に浮かんでしまうのだ。
さて尾形の台詞の中でも印象深い「親殺しは巣立ちのための通過儀礼だ」は、ギリシャ神話で有名なスフィンクスの謎かけ(最初は四本足、次は二本足、最後は三本足、これな〜んだ、のやつ)を解いた、オイディプス王の神話に基づいたものだと思われるのだが、その神話ではオイディプス王は最期に自責の念に駆られて両目を潰したという説がある。
作者がこの神話に尾形をなぞらえたのかどうかはわからんが、もしかして最期は両目を…などと思っていたら本当にやっちまったので驚いた。
なんか最後は勇作が絵画の前で死んだ少年を天へ導く天使みたいになってたが、境遇により生み出されてしまったが半分、それにより自らで生み出してしまった呪縛を解く方法が自死であるのは、なんとも気の毒である。
だがゴールデンカムイのサブテーマでもある「天から役目なしに下ろされた者はいない」に基づくと、尾形の役目はアシㇼパにイマイチ踏ん切りのつかなかった戦う覚悟を完成させる役目だったのかもしれない。
杉元が洋平に言った「うるせぇな!これは殺し合いだろ」という台詞が、まさに今ここで起こっていることが、残酷なまでに命を奪い合う場だと読者にも突きつけてきた。
そして何話だかの煽り文にもあったように「戦争は誰が正しいのかを決めるのではない。誰が生き残るかを決めるのだ」(黒富野ガンダムにありそうないい文言だ)
これは戦争であるという現実をアシㇼパに植え付けるための最後のピースだったのか。
それを裏付けるような、アシㇼパが毒矢を放った瞬間、杉元の目が一瞬輝いたように見えた。放心して色が失われたともとれるが、私にはこれでようやくアシㇼパさんと対等に戦える。という、思っちゃいけないことだけど、感情には出てしまった描写に思える。
残り三話、果たしてあの列車は地獄行きとなるのだろうか。
【ゴールデンカムイ感想回】26巻 出生ガチャ
久しぶりにまた感想ブログを書きたくなったのは、26巻があまりにも濃い内容だったからだ。
25巻の土方と杉元の戦闘シーン、非常にわくわくする組み合わせだったが、個人的にコマ数が少ないと感じた。欲を言えばもっと動作のコマを増やして欲しかった。というのも、樺太でのキロランケとの戦闘シーンも、盛り上がる場面であるにも関わらず動作と動作のコマが省略されている感じがした。読んでいて「あれ?これ誰の手?」や「今なにが起こった?」と読み返す部分があり、バトルシーンとしては迫力に欠けているなと思った。私の読解力の問題かもしれないが。
そしてもっとも言及したかったのが杉元の台詞。
「誰から生まれたかじゃなく、どう生きるかだろ」
これさ、たぶんめちゃくちゃ心に響くはずの台詞なのよ。もう終盤の出来事に大きな意味をもたらすはずの台詞なの。
アシリパにも尾形にも、谷垣も鯉登も月島にも、生まれた環境、親の立場に人生を左右されたキャラの多いこの物語の確信を突く言葉なのになぜかまったく心に響かねぇ。
というのも私自身「いや出生ガチャ、めちゃくちゃその後の人生に影響出るで」と思ってる人間なので、この台詞が響くどころか反感を覚えたのだ。
だって子供は親を選べないってよく言うじゃん。
例えば金持ちの家に生まれたら与えられるものだってそうじゃない家庭の子供に比べたら多いわけで。それを努力で払拭してる人もたくさんいるけど、その努力は実家が太ければしなくてもいい努力だったわけで。
もちろん逆も然りで、呪術の野薔薇ちゃんの友達は家がお金持ちってことでちょっとした迫害を受けてた。
それも含めて「誰から生まれた」ってのは人生をけっこう左右する要因でもあると思う。
しかし読み終えて一日考えてみると、杉元だってもしお父さんが結核じゃなければ梅ちゃんと結婚していたかもしれないという「誰から生まれたか」に人生を左右されたひとりなのだ。
ということはあの台詞はアシリパさんに向けての意味もあるし、自分自身への慰めの意味もあったんじゃないかと思える。
そうでも思わなければ杉元はきっと親を恨んでしまいそうだった。しかしお父さんだって好きで結核を患ったわけではない。なにもかもが抗えない偶然によって引き起こされたものである。
自分の意思が介在しない状況、人間がこの世に生を受けることだって自分の意思ではない。たまたま生まれてしまったにすぎないのだ。
そしてその時に配られたカードは実に不公平でリセマラなんてものができるはずもなく、与えられたカードを使いこなすのは自分がどう生きるかによる判断次第なのだ。
そういった意味をもつ台詞だとしたら、ひねくれた私も理解できる。共感はできないが、たしかに産まれるというのは理不尽さを多く含む場合もある。
しかしそれをどうこう言っても始まらないのだ。
だから選べる道が限られていても、狭い選択肢の中からどれが自分の進みたい道なのかを考え選ぶ。それもまたスフィンクスの謎を解いたオイディプスの神話に登場する「親殺しは巣立ちへの通過儀礼」に通ずるのかもしれない。
親の呪縛、環境を打破する=親殺しとするならば、三叉路を塞いだ老人(父親)を殺し、道を進んだオイディプスのように、自分の人生を自分のものとして歩くために必要なのは、どう生きるかに対する明確な答えを導き出すことなのかもしれない。
【ゴールデンカムイ妄想回】シンエヴァからゴールデンカムイを考える
※今回はシンエヴァンゲリオン:||のネタバレを含みます。まだ見てないよって方はお気をつけください。
あくまで私がシンエヴァを見てゴールデンカムイに通ずるものがあるなと感じた妄想です。
まず、なぜシンエヴァからゴールデンカムイへの類似性を感じたかというと、親が遺した願いに対して子供が落とし前をつける。そこにある。
私は単行本で作品を追っているため、ここからは単行本24巻掲載までの内容で語る。(本誌の展開によってはまーったく違うよ!って部分は目を瞑ってほしい)
シンエヴァではゲンドウの願いである人類補完計画を阻止した。ゲンドウの願いは個々の人格や感情による差別のない統一的な安寧と妻であるユイとの再会。言ってしまえばゲンドウはこの願いのために息子であるシンジだけでなく、世界中をも巻き込んだ。個人の願いの成就にしては対価が大きすぎる。
しかしこれはウイルクにも似たようなことが言える。
ウイルクはテロリストであった。行いが行いだっただけにテロリストとして指名手配されていたが、自分たちの立ち位置をより良いものにしたいと願う革命家である。極東ロシアの独立のため、金塊を奪いそれをアシリパに託した。ウイルクの場合は個人の願いではないが、ウイルクが率先して革命を行い、意志を託すという形で娘であるアシリパを巻き込んでいる。
子供からしたら「いや、あんたの願いなんて知らねーし」と思うかもしれない。
シンジだっていきなり呼び出されてよくわからないロボット的なものに乗って戦えとか言われて最初は拒絶した。誰だってそうだ。
真相が憶測の域を超えぬ状態で父親が金塊強奪犯になってて、いざ会ってみたら顔の皮は剥がされてるしほんとうに捕まってるし、金塊の在り処に通ずる鍵を握っているのはおまえだとか言われても「わけがわからないよ!」となる。
しかしシンジもアシリパも、わけがわからないからエヴァに乗ったし、真相を突き止めるため杉元と手を組んだ。
そして父親の意図に指先が触れると、その落とし前をつけなければいけないと決意する。
アシリパはたとえ地獄に落ちようと、まで意志を固くした。これは贖罪に対する贄を必要とするシンエヴァの世界にあったとおり、アシリパは自身の潔白を贄にしてでも父親が遺した願いに対する落とし前をつけようとしている。
そもそもタイトルのゴールデンカムイとはなんなのか。
ゴールデンとは「金色の」や「繁栄」を意味するらしい。(wikiより)
金色のカムイ。繁栄のカムイ。
カムイとはアイヌ語で神を意味する。
ここだけは神殺しをしようとしたシンエヴァとは違うが、問題はウイルクがアシリパに託した金塊が、神の枕詞として使用されている可能性だ。
可能性と言うのは、この時点でタイトルのゴールデンが金塊を指すのかどうかは不明だからだ。
金塊を探す物語なのだからタイトルの「ゴールデン」は金塊、すなわち「金色」を指すのだろうが、金塊は金に替えられる。金は繁栄の礎となる。この「ゴールデン」が繁栄の要として神と同等であることを指すのなら、あらゆるもの(生物から無機物まで)に神が宿っていると信じるアイヌ民族からすると、お金にも神が宿ると考えても不思議ではない。
しかしお金に神が宿るとはどういうことなのだろうか。
ここで熊送りの儀式を思い出してほしい。
育てた小熊を神の元へと送る儀式だ。これは食用に相応しい成長した熊を得るための生贄ともとれる。
より大きなものを得るためには儀式と贄を必要とする。
ここにもシンエヴァとの親和性を感じたのだ。
宗教的観念はシンエヴァとアイヌではかなり異なる。そもそもほとんどの宗教には神は唯一の存在であるが、アイヌの神はひとりではない。しかしこれは神が動物や物に自らの力を分け与えていると考えると、アイヌにおいても神は唯一の存在であると考えられる。
何巻だったか忘れたが、神が熊やら鮭やらを地上に送り出している描写があったはずだ。つまりそれぞれに宿るカムイとは神の化身のようなものであるのかもしれない。
まあ尾形が言うように、神というのはあやふやな存在なのでここで言及しても結論は出ないが、ウイルクがアシリパに繁栄のカムイを宿すことを願ったのだとしたら、それにより犠牲になった村の長九人はウイルクが手をかけなかったとしても、なんらかの形でアイヌ存続の贄となったとも考えられる。
アイヌのために、アイヌ民族が生贄として差し出された。まるで熊送りの儀式のように。
そしてシンエヴァは、人々の魂の浄化のために人が犠牲になる。一番の犠牲は最後までゲンドウに協力を惜しまなかった冬月だろう。
そしてゲンドウ=ウイルクと強引な符号を用いるなら、妻の存在もまた類似する点だと思う。
ゲンドウの場合は人類補完計画の一環としてユイが犠牲になってしまった。ウイルクの場合は妻は病死であるが、ウイルクにアイヌのあらゆることを教えてくれた存在である。それはウイルクがアシリパに「新しい未来」と名付け、願いを託したトリガーになったのかもしれない。
これはあくまで私の想像だが、アシリパはウイルクの願いをそのままの形では実現しない気がする。
ウイルクの考えは尊重するが、アシリパはアシリパなりの方法によってアイヌを守ろうとするのではないか。それは父親の願いには犠牲を必要とするからだ。そうではなく、アシリパは地獄に落ちる覚悟を決めるが、どこかで「そのやり方はちょっと違うのではないか」と葛藤しているようにも思える。
それは杉元との出会いによるものが大きいかもしれない。和人である杉元と共に旅をしていく中で、民族とは集団として閉鎖的であることが存続するための方法にはならないのではと感じている気がするのだ。
民族という枠組みで囲うことが守ることなのか。もっと多角的に認め合い、手をとることで守られる、いや尊重し合うことで失われずに済むのではないかと、ウイルクとは別の視点を見つけているのかもしれない。
ウイルクの教えを100%トレースせずひとつ上のフェーズを切り拓くことと、シンエヴァでシンジがゲンドウを諭し解放すること。そうすることで世界に色がつく結末(ゴールデンカムイはまだどうなるかわからんが)がなんだか重なるなあと感じたわけだ。
まあ親が遺した願いを子が精算し、世界や民族をどう残すかという点においてだけ考えれば、新しい世代、アシリパがどう変えていくかはこれからより楽しみになった。
というか、アシリパは父親が殺されたことに対してもっと憎しみを抱いてもいい気がするのだが、あまりにも多くのことを背負わされすぎて憎むという感情を抱く暇もないのだろうか。
まだ14歳かそこらへんの子供にしては「それで大丈夫なんか?」と心配にもなるが、杉元に子供扱いするなと言った手前、大人になるしかなかったのか。
どうか大人になる前にもっと甘えて喚いてほしい。余計なお世話だがもう少し自分の欲求に素直になってほしい。白石のように。
【ゴールデンカムイ感想回】死の足音と命の産声を聞け【23巻】
ゴールデンウィーク期間中にヤンジャンアプリで無料公開されていた話数までは感想を書いているので、その話数が収録されている23巻について今更なにを思うことがあるのかと。
いやあるんだよこれが。
まず尾形があたりまえの顔して土方陣営に帰って来てることには先のブログでも触れたが、尾形、こいつ息をするように嘘をつきやがったぞ。
のっぺら坊が流れ弾で死んだと。
流れ弾っつったなおまえ。どの口が!流れ弾と?おまえが撃ったんやないか!!
でもね、尾形が嘘をつくのも当然っちゃ当然なんだよな。
だってあの時、網走監獄ではのっぺら坊をアシリパに引きあわせることが最重要任務で、みんなそのために動いてたわけじゃない。
それを尾形が、そんな最重要人物を、撃ち殺したとなればどうなるかは火を見るより明らかなわけで。
尾形だっていつでも単独行動で凌げるような、スーパーソロ戦士ではない。加えて狙撃の腕も格段に落ちている。そういえば打ち損じたあとの「ははっ」ってのがなくなってるね。
「ははっ」って状況じゃないものね。
トップステータスである狙撃が素人同然になって笑っていられるほど、尾形も奇人ではなかったんだ。
そんなスーパー狙撃手としてのスキルを失った今、土方陣営に衣食住(衣はそのへんから盗んだが)の世話になるためには、情報を提供するしかないのが現状だ。
尾形はキロランケとアシリパと共にした土産話以外にここに世話になれる理由がないと判断し、自分に不利な情報は敢えて話さなかった。
でもそれだって土方が杉元と再会したらバレる話だが、そうなったらまた得た情報を手に鶴見のところで厄介になるのだろうか。
いや、尾形自身、鶴見の恐ろしさを痛感しているような台詞を吐いたから鶴見の元へ情報を手土産に転がり込んでも、土方のように迎え入れてくれる可能性がないことは重々わかっているだろう。
しかしこの「尾形がのっぺら坊を撃った」ことで、アシリパに復讐という概念が植え付けられたとしたら…と考えた。
ここからは私のいつもの妄想だが、尾形がウイルクを撃った意図が、アシリパに不殺の信条を試させるための行為であったとするなら、それによりアシリパには今まで描かれなかった「同族を殺された憎しみ」という感情が芽生えたのではないだろうか。
アシリパが覚悟を決めたのは、ウイルクとの思い出、暗号の鍵となるエピソードに付随している感じはあるが、それを後押し、というかトリガーになったのは、父親を殺した相手に一度は弓を向けた、その感情なのではないか、と。
民族、それも父親のあだを討つ感情が生まれ、さらに民族意識が高まったのではないか。
それを強調させるために、鶴見と宇佐美の回想が差し挟まれていたのかもしれない。
人を殺せる兵士に必要なのは愛だと。戦友を、祖国を守りたいという集団の一員であるが故に、その集団を脅かす者を殺しても罪悪感を抱かない。むしろこれは自分たちが帰属する集団を守る、もしくは繁栄させるための善い行いであったと思わせるための、団結力に近いものを生み出した。
それな民族においても通ずるものがあるのではないか、と。
たとえ地獄に堕ちようとも、守らねばならぬものがあると気づいたアシリパの決意の一部に、親を殺した相手に対する憎しみが少なからず関係していると思う。
それに対し、谷垣とインカラマッの子供の誕生。
和人とアイヌの間に生まれた新しい命が、どう関わってくるのか。
和人との戦争に備えて蓄えた金塊を巡り、多くの血が流れたが、ここに、和人とアイヌの民族の垣根を越えた生命は、何をもたらすのか。
和睦とはいったいなんなのか。
それまで犠牲になった命を蔑ろにして手を取り合うことが可能なのか。
奪った者への憎しみを手放すことなのか。果たしてそれをして、手を取り合うだけで確執は消えるのだろうか。
犠牲者を理由に争うことは正義なのか。
私には到底答えが見つけられない。
憎しみどころか同胞への愛が同じ人間を殺すことを肯定してしまうのなら、人間はとても愚かでしかないと思えてしまう。
忠誠心という名の愛と、民族を越えた愛の先に生まれた未来。
白石の名案により金塊に近づいた杉元たちだが、謎を手にした者はおそらくその秘密の責任も負わねばならないだろう。
果たして金塊はいったいなんのために用意されたのだろうか。
あとね、私はもう家永が表紙になれるチャンスは23巻しかないと思ってたんだよ。
でもこれも完璧にはなれなかった家永らしいなと思えば 。いや、表紙になった家永、見たかったなあ。
【ゴールデンカムイ妄想回】ナウシカとアシリパ
先日初めて、映画館でナウシカを観てきた。
その流れで家にあったナウシカ単行本を読み返したのだが、途中まで、アシリパはナウシカのアンチテーゼなのではないか?と思った。
なぜ「途中まで」かと言うと、ゴールデンカムイがまだ結末を迎えていないからだ。
実際にアシリパがナウシカのアンチテーゼとして描かれるのか、そうでないかの判断は、物語が終わってからでないとつけられない。
では私がアシリパがナウシカのアンチテーゼとして描かれるのではないか?に至ったのかというと、立場が似ているからだ。
ナウシカは風の谷の族長ジルの子であり、ジル亡きあと、いや、ジルがあの通り病で床に伏している状態である時から、谷の者たちはナウシカを族長代理として扱っていた。
アシリパも、アイヌを牽引しようとしたウイルクの子であり、ウイルクはアシリパにその引導を渡そうとしていた。
二人は共に、民族を率いる立場にある。
しかし私は、ゴールデンカムイでのアリシパの立ち位置は、ナウシカのようには描かれないと思っている。
これは完全に主観だが、野田先生ならば、あえて誰もが名前くらいは知っている有名作品の流れの中で、まったく別の方向へ舵を切る人だと思えるからだ。
つまり、アシリパはナウシカとは別の方法で民族救済の道を選ぶだろうと。
ここからは少し原作ナウシカ(映画は単行本2巻あたりまでを描いているが、単行本は全7巻ある)のネタバレになる。
ナウシカは結局、腐海の謎を知り、滅びゆく運命を強いられた人類、世界に対して、NOを突きつける。
命を等しく尊く扱い、できるだけ共存する道へ進むべく、ナウシカは自らを犠牲にする覚悟でラストダンジョンでもある「シュワの墓所」へと向かった。
そこに同行したのは、かつて火の七日間で世界を焼き尽くしたとされる巨神兵の生き残り。ナウシカは、再生しかけていたまだ未熟な巨神兵に名を与え、巨神兵の母の振りを徹底して貫くのだ。
その巨神兵も実は、裁定者であることが後に判明する。
巨神兵は破壊者ではなく、審判を下す者だったのだ。つまり神の領域に近い存在。
しかしナウシカは「神は人に在らず、草や虫にだって存在している」と語る場面がある。
そうなのだ。人は神にはなれない。人を神として祀りあげてはいけない。
アシリパはアイヌの偶像として、民族を導く立場になるような場面もあるが、アシリパもおそらく人間が神になることを望まないだろう。
なぜならアイヌの信仰でも、神は動物や物にも宿っている。人はその恩恵にあやかり、蔑ろにすれば報いを受ける存在であるからだ。
人間は、自然よりも下の存在であることを認めなければ、世界とは共存できない。生きてはいけないとされている。それがアイヌの教えであり、ナウシカの語る部分とも近いと思う。
ナウシカはあまりにも個人プレーだが、アシリパの場合は、原点として、杉元と相棒協定を結んでいる。という点から大きく違えるのではないか。
ナウシカの場合は、その人格ゆえに、クシャナなりミトじいなりユパなり、アスベルなど、多くの人が無意識にナウシカに手を貸そうとする。
しかしナウシカはあくまで、自分ひとりで「墓所を閉じる」という最後の役目を担おうとするのだ。
その結果、ナウシカは二度ほど死にかける。
命が肉体から離れそうになる時、ナウシカは「それでもいい」というようなことを呟いたり、そういった態度で命の終わりを受け入れようとするのだ。
ナウシカは自らの犠牲を厭わないタイプなのだ。
だがアリシパは、なんとしても生き延びようとする。そのためには杉元を相棒として必要とする。
生きて、地獄に堕ちても生きる覚悟があるように見える。たとえ生きた先が地獄であれ、地獄を歩くことを悲しむ余裕すら持たない。そういった意思が、ナウシカとは別の路線を目指しているように読み取れた。
ナウシカは蟲使い達から神のように崇拝される場面があるのだが、そこがアシリパとの大きな分岐点のように思えた。
裁定者だとは知らずに名を与えた巨神兵がナウシカを母と認識すれば、ナウシカは巨神兵が死ぬまで母を演じた。
ナウシカは自分の意志を介さず、相手から役割を背負わされる傾向がある。そしてそれを、どこかしょうがないと否定することを諦めつつあるように見えたのだ。
与えられた役割をこなしてしまうナウシカと、自分の役割を自分で決めようとしているアシリパ。
アリシパの「人を殺したくない」の信念の由来はわからないが、それが誰かの示唆であれ、教えであれ、願いであれ、アシリパは今、その信念さえも時として壊さねばならぬと覚悟している。
私はアシリパというか、ゴールデンカムイそのものが、もうひとつのナウシカ。欲望と信仰と恐怖にどう決着をつけるかの物語であるナウシカの、新たな可能性ではないのか。単行本ナウシカを読んでそう感じたのだ。
強く気高く、背負わされたものがあまりにも大きい少女。
彼女たちには、それぞれの役目があるだろう。物語の中でどちらが良き判断だったかなどの正解や不正解に白黒つける物差しはない。
どちらの選択もきっと「このキャラならこうすることが最もしっくりくる」というような、着地点に落とす。それが結末にどう波紋を起こしてひとつの場所に還っていくのか。
だから私は思うのだ。
「アシリパ、あなたならどうする?」と。
あなたはこの金塊争奪戦を、どう落とし前をつけるつもりなのか。あなたの父が始めた、ひょっとしたら敢えて金塊を巡る争いが起きることを願ったかのような、入れ墨人皮という暗号を。どこかから広まった、広めさせられたかもしれない、囚人に入れ墨、暗号、金塊というワード。それら断片的な情報で錯綜する姿を見て、アシリパ、あなたはそれでも和をもって納めようと思っているのか。または和睦ではないのか。
そんなことを考えてしまった。
その双肩には重すぎる運命を背負わされてしまった少女達が、それぞれに選んだ道を楽しみに今日は眠ろう。
【ゴールデンカムイ感想回】道理は正義の裏付け【22巻】
東日本縦断の旅を経て、一昨日ようやく我が家にたどり着いた新刊。
22巻に収録されている分は、毎週ヤンジャンアプリで読み、都度ブログに感想を書き殴っていた話数なので、敢えて感想を書く必要もないかなと思った。が、やはり改めて単行本で一気に読むとまた違った感想が生まれる。
そして後半の平太師匠の話は、結末を知って読むと「なるほど」と唸らせられる部分があった。
なので今回は、平太師匠の話を中心に感想を綴っていこうと思う。
まず、イマジナリーノリ子が杉元たちの前に登場した時点で、白石なら「彼女募集中です!」とお決まりのアピールをするはずなのだ。
家永の時もそうだし、インカラマッの時も、白石は美人に対面すると初手でアプローチをする。
だがノリ子はあれほど器量良しにも関わらず、白石はウインクをしただけであった。
それもそのウインクはノリ子へ向けたというより、平太師匠への相槌だったと、結末を知ってから読むとわかる。
しかし初見では、このウインクが美人のノリ子へのアプローチとして捉えてしまう。ここで私をはじめ読者は、ノリ子が実在している人物だと錯覚してしまったのだ。(勘のいい読者は気づいていたかもしれないが)
そして平太師匠以外の家族らしき人物の台詞に対し、杉元たちは誰ひとりとして答えていない。あくまで平太師匠とだけ会話をしている。
改めて読むとまったく矛盾点がないにも関わらず、私は完全に平太師匠以外の人物が実在していると途中まで錯覚してしまっていたのだ。
これは小説でいうところの叙述トリックに近いものではないだろうか。
更にヴァシリこと頭巾ちゃんが、平太扮するノリ子の裸体を前にし、猛烈に筆を走らせるシーン。
あれも「ヴァシリもやっぱり男なんだなあ(ニヤニヤ)」などと思っていた。いや、思わされていた。
美人の裸体を前にした男の心理としては、まあそうだろうな。という思い込みによって、また読み手はノリ子が実在している人物であることを刷り込まれたのだ。
しかし、ヴァシリがノリ子の裸体を描いている描写は一切ない。ないにも関わらず、大半の読者はヴァシリがおねーちゃんのヌードを一心不乱に描いている。と、誤認してしまうのだ。
だが改めて言うが、平太師匠以外の人物が実在している決定的な描写は一切ないのだ。
平太師匠の妄想を読者にあたかも存在しているかのように見せ、結末が明かされて読み返しても矛盾点がひとつもない。
どこに平太師匠以外の人物が実在してるという確証があった?ないよね?誰一人、平太師匠以外とは言葉を交わしていないよね?
はい、たしかにそうです。
とんでもねー描き方だなおい!!
なんだこの「そこにいるよ」と思い込ませる描き方は!!いや誌面には登場してるよ。おじいちゃんもノリ子も嵩にいも。描写はあるの。でも実際はいないの!
おじいちゃんが板どりの効率の悪さを説明しているコマに対し、さも白石がそれに「あんだよ やっぱ上手く行かねぇな〜」と返しているように見えるけど、これも川の水で手がかじかむまでやっても取れないことへの白石の独り言と言われればそうなんだよ。実際独り言だったんだよ。それをあたかも実在しない人物と会話が成立しているかのように見せる。
とんでもねー描き方だなおい!!!!
ついでに言うとヴァシリに裸体を描かせていたノリ子が、嵩にいに連れられて小屋を出て行ったかのように見せている場面。
すったもんだしたあと二人はキスをしているが、これを見ていた平太師匠もまた、舌をペロペロと動かしている。まるで自分がキスをしているかのように。
平太師匠は木の上でのぞき見をしていたが、頭の中ではノリ子になってキスをしていたわけだ。その光景を「見ている側」であるはずの平太だが、もう頭ん中では「見られている側」になっているわけだ。自分がなりきっている人格を俯瞰で見ている。
何が言いたいかというと、平太師匠は実に器用な脳みそを持っている。
今これを読んでいる人は目を瞑ってでもいいんで、自分が杉元のようにはちゃめちゃに強いと思い込んでみてほしい。そして自分が羆や兵士をなぎ倒している姿を想像する。自分の頭の中で、自分がどんなに傷を負っても相手を猛打している姿を、どこか別の場所から見ている。
これぐらいならできるだろう。
じゃあ目を開けた状態で、杉元並に強い自分が目の前で暴れ狂っているところを想像し、さらに妄想している自分の身体も暴れ狂って相手をなぎ倒しているように動かす。この時、自分のことはもう完全に杉元だと思い込み、疑いもせず、事実として記憶する。
できるだろうか?
脳科学や一種の精神疾患など、専門的な知識はないため、これがどういった症状に値するのかなどということについては語らない。
だが、こういった複雑な脳の切り替えが無意識に行われてしまう。通常時ではとてもできそうにはない。それができるようになってしまった。自分の意思とは無関係どころか、死を持ってでしか止めることができなかった。そこに至るきっかけは、平太師匠が聞きかじったウェンカムイの話である。
アシリパは言った。「中途半端にアイヌのことを聞きかじってしまった」と。
正しい情報、経緯などを曖昧に耳に入れてしまったがために、情報の欠けている部分を不安や恐怖で埋めてしまう。
最近の事例でわかりやすいのが、ドラッグストアなどからトイレットペーパーが一瞬で消えたことだろう。
たったひとつの発信元から、情報の精査も行わず不安や恐れが先行した。不安は人を、正常時なら考えられない行動をさせてしまう。
あの時、正しい情報がきちんと伝わっていたなら、買い占めなどは起こらなかったのではないか。曖昧で不安を煽るような情報が飛び交い、人は不安を補うために物を大量に確保しようとした。
冷静に考えれば、行動する前に調べたなら、製紙工場
が国内にもあることは理解できただろう。
アシリパが「正しく伝えなければいけない」と言ったのは、私は文化だけではないと思う。情報すべてがそうだ。正しく伝われば誤解も生れず、相互理解にも繋がるのではないだろうか。
そもそも金塊は和人と戦うために集められたとされている。
だがおそらくウイルクは、戦わずして和人との共存の道、もしくはアイヌ存続の道を提案したのではないか。
そこで意見が違えた。戦って勝って、国や民族を治めるのはもっとも手っ取り早い手段だ。だがそこに生じる犠牲は計り知れない。正しいアイヌの在り方、文化、生き方。それらを和人に正しく知ってもらい理解してもらえれば、共存という道も開けるかもしれない。
ただアシリパが暗号の鍵について思慮したとき、「道理さえあれば杉元と地獄に堕ちる覚悟だ」と胸に抱いた。
そして暗号の鍵を杉元が知れば、アシリパを置いてひとりで戦いに行ってしまうとも。
いったいウイルクはアシリパに何を託したのだろうか。至極簡単に考えるなら、アイヌが生き残るにはアイヌという国をつくり、統治する側になる。それぐらい過激な手段をとることもない辞さないかもしれない。争わず、生き残る手段としては常套かと思う。
しかしそれだって過酷な選択だ。
どうやったって和睦とは永遠に人間が得られないものかもしれない。
和を尊ぶ者が犠牲となり、他を配下に敷き、争いごとを禁じる法などで治めるほかない。
犠牲になるというのは、人の最も上の存在として立つ者は、多くの怒りをも買うからだ。反対する集団に対しでも心を鬼にして信念を一貫せねばならない。
民族然り、集団を統べるとは信念を貫く覚悟と、一方で残酷な判断を迫られくださねばならない。
そういった意味での「地獄」をも、アシリパは視野に入れているのではないかと思う。
【尾形深掘り回】蒼穹のファフナーから尾形の祝福を考える。
YouTubeで無料配信され始め、15年の時間を跨ぎ更に今、注目を集めている「蒼穹のファフナー」
Netflixの奴隷である私は、Netflixの人工知能に勧められるままに視聴し始めた。そもそもなぜ今までこれを観ずに過ごせてきたのか。それくらい、私の好みにフィットしていた。やるな、Netflix。
さて本題は、この「蒼穹のファフナー」に登場する敵の名前が「フェストゥム」であること。
フェストゥムとはラテン語で「祝祭」を意味し、作中ではフェストゥムは人類にさらなる高次元への移行を与えよう、それが「祝福」であると語られる。
祝福というワードに敏感な私は、作中で描かれたほんとうの「祝福」と尾形が口にした「祝福」についてを重ね合わせた。
ネタバレを含むが、作中では最終的にフェストゥムが与えようとした、感情や意識を同化させ一体化し無に帰すことで、人類は新しいフェーズへと移行する。それがフェストゥムがもたらす祝福である一方で、人類は対話を通して人々がわかり合う個人と個人の多様性を主張した。
そしてフェストゥムの決まり文句である「あなたはそこにいますか」の問い。
これがストーリーが進むにつれ「そこにいる」とは「自分の居場所を保持している」と解釈される。
つまり、一体化を拒否した人類側の祝福は、自己の存在肯定であり、その場所に自分が存在していいと自身が思えることにあると、私は解釈した。
この流れと尾形の語った「祝福」を照らし合わせる。
祝福とは、自分の居場所、所属を明確にすることならば、それは他人からも「あなたの居場所はここだ」と認められる必要がある。
集団の中で、個としての肯定を得るには、その集団に必要とされなければいけない。
いわば、集団の中においての役割を見いだせるかどうかが、祝福に繋がるのではないだろうか。
前回も触れたが、尾形の行動には相手に自己の存在を認めてもらおうとする様子が窺える。
これはいつもの私の妄想なのだが、生まれて初めて所属する家族という集団の中で認められなかった。祝福された道はそこにはなかった。
勇作を撃ち殺しても、尾形が祝福される世界線への分岐にはならなかった。
この時尾形にとって、祝福は与えられるものではなくなった。祝福された道の可能性、それは勇作を亡き者にすることで生まれたはずだった。どちらかの二択だ。父親が勇作の代わりに自分を愛おしくなるか、そうではないかの賭けだ。
だがその祝福トライアルでは、結局、祝福された道への分岐は絶たれた。
だが尾形の失敗は、対話による祝福の獲得を放棄したことだ。
消去法で可能性を浮上させたのだから、そう易々と人の愛情というものは変化しないのだ。
それから尾形は手土産や、アシリパとの対話という手段を学んだ。
すべては、それらは自己を受け入れてもらう手段として、有効かどうかの試行である。
「蒼穹のファフナー」のフェストゥムも、ニールという人工知能のコアが、人間の感情などを学習していく。
尾形もまた、未発達で、人類においてのほんとうの祝福を知らない存在なのだ。
「蒼穹のファフナー」は最終的に同化することで意思の疎通をはかるではなく、対話することで相手の意思を理解しようと試みることの大切さ。それが人間であるとの主張。それにより生まれる、自分の所在。
「私はここにいる」
フェストゥムが用いる「我々」という同化した個体を指す三人称ではなく、私という個人は「我々」の中に所属しながらも、個人であるという主張。
それが人類が選んだ「祝福」なのだ。
とにかく蒼穹のファフナー、めちゃくちゃストーリーと設定が凝ってて唸らせる作品なので見てほしい。
ただあちこちで評価されているように、救いのない作品であることも、一応忠告しておく。