どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【ゴールデンカムイ感想回】道理は正義の裏付け【22巻】

東日本縦断の旅を経て、一昨日ようやく我が家にたどり着いた新刊。

22巻に収録されている分は、毎週ヤンジャンアプリで読み、都度ブログに感想を書き殴っていた話数なので、敢えて感想を書く必要もないかなと思った。が、やはり改めて単行本で一気に読むとまた違った感想が生まれる。

そして後半の平太師匠の話は、結末を知って読むと「なるほど」と唸らせられる部分があった。

 

なので今回は、平太師匠の話を中心に感想を綴っていこうと思う。

 

まず、イマジナリーノリ子が杉元たちの前に登場した時点で、白石なら「彼女募集中です!」とお決まりのアピールをするはずなのだ。

家永の時もそうだし、インカラマッの時も、白石は美人に対面すると初手でアプローチをする。

だがノリ子はあれほど器量良しにも関わらず、白石はウインクをしただけであった。

それもそのウインクはノリ子へ向けたというより、平太師匠への相槌だったと、結末を知ってから読むとわかる。

しかし初見では、このウインクが美人のノリ子へのアプローチとして捉えてしまう。ここで私をはじめ読者は、ノリ子が実在している人物だと錯覚してしまったのだ。(勘のいい読者は気づいていたかもしれないが)

 

そして平太師匠以外の家族らしき人物の台詞に対し、杉元たちは誰ひとりとして答えていない。あくまで平太師匠とだけ会話をしている。

改めて読むとまったく矛盾点がないにも関わらず、私は完全に平太師匠以外の人物が実在していると途中まで錯覚してしまっていたのだ。

これは小説でいうところの叙述トリックに近いものではないだろうか。

 

更にヴァシリこと頭巾ちゃんが、平太扮するノリ子の裸体を前にし、猛烈に筆を走らせるシーン。

あれも「ヴァシリもやっぱり男なんだなあ(ニヤニヤ)」などと思っていた。いや、思わされていた。

美人の裸体を前にした男の心理としては、まあそうだろうな。という思い込みによって、また読み手はノリ子が実在している人物であることを刷り込まれたのだ。

しかし、ヴァシリがノリ子の裸体を描いている描写は一切ない。ないにも関わらず、大半の読者はヴァシリがおねーちゃんのヌードを一心不乱に描いている。と、誤認してしまうのだ。

 

だが改めて言うが、平太師匠以外の人物が実在している決定的な描写は一切ないのだ。

平太師匠の妄想を読者にあたかも存在しているかのように見せ、結末が明かされて読み返しても矛盾点がひとつもない。

どこに平太師匠以外の人物が実在してるという確証があった?ないよね?誰一人、平太師匠以外とは言葉を交わしていないよね?

はい、たしかにそうです。

 

とんでもねー描き方だなおい!!

なんだこの「そこにいるよ」と思い込ませる描き方は!!いや誌面には登場してるよ。おじいちゃんもノリ子も嵩にいも。描写はあるの。でも実際はいないの!

おじいちゃんが板どりの効率の悪さを説明しているコマに対し、さも白石がそれに「あんだよ やっぱ上手く行かねぇな〜」と返しているように見えるけど、これも川の水で手がかじかむまでやっても取れないことへの白石の独り言と言われればそうなんだよ。実際独り言だったんだよ。それをあたかも実在しない人物と会話が成立しているかのように見せる。

 

とんでもねー描き方だなおい!!!!

 

ついでに言うとヴァシリに裸体を描かせていたノリ子が、嵩にいに連れられて小屋を出て行ったかのように見せている場面。

すったもんだしたあと二人はキスをしているが、これを見ていた平太師匠もまた、舌をペロペロと動かしている。まるで自分がキスをしているかのように。

平太師匠は木の上でのぞき見をしていたが、頭の中ではノリ子になってキスをしていたわけだ。その光景を「見ている側」であるはずの平太だが、もう頭ん中では「見られている側」になっているわけだ。自分がなりきっている人格を俯瞰で見ている。

何が言いたいかというと、平太師匠は実に器用な脳みそを持っている。

 

今これを読んでいる人は目を瞑ってでもいいんで、自分が杉元のようにはちゃめちゃに強いと思い込んでみてほしい。そして自分が羆や兵士をなぎ倒している姿を想像する。自分の頭の中で、自分がどんなに傷を負っても相手を猛打している姿を、どこか別の場所から見ている。

これぐらいならできるだろう。

じゃあ目を開けた状態で、杉元並に強い自分が目の前で暴れ狂っているところを想像し、さらに妄想している自分の身体も暴れ狂って相手をなぎ倒しているように動かす。この時、自分のことはもう完全に杉元だと思い込み、疑いもせず、事実として記憶する。

できるだろうか?

脳科学や一種の精神疾患など、専門的な知識はないため、これがどういった症状に値するのかなどということについては語らない。

だが、こういった複雑な脳の切り替えが無意識に行われてしまう。通常時ではとてもできそうにはない。それができるようになってしまった。自分の意思とは無関係どころか、死を持ってでしか止めることができなかった。そこに至るきっかけは、平太師匠が聞きかじったウェンカムイの話である。

アシリパは言った。「中途半端にアイヌのことを聞きかじってしまった」と。

正しい情報、経緯などを曖昧に耳に入れてしまったがために、情報の欠けている部分を不安や恐怖で埋めてしまう。

 

最近の事例でわかりやすいのが、ドラッグストアなどからトイレットペーパーが一瞬で消えたことだろう。

たったひとつの発信元から、情報の精査も行わず不安や恐れが先行した。不安は人を、正常時なら考えられない行動をさせてしまう。

あの時、正しい情報がきちんと伝わっていたなら、買い占めなどは起こらなかったのではないか。曖昧で不安を煽るような情報が飛び交い、人は不安を補うために物を大量に確保しようとした。

冷静に考えれば、行動する前に調べたなら、製紙工場

が国内にもあることは理解できただろう。

 

アシリパが「正しく伝えなければいけない」と言ったのは、私は文化だけではないと思う。情報すべてがそうだ。正しく伝われば誤解も生れず、相互理解にも繋がるのではないだろうか。

 

そもそも金塊は和人と戦うために集められたとされている。

だがおそらくウイルクは、戦わずして和人との共存の道、もしくはアイヌ存続の道を提案したのではないか。

そこで意見が違えた。戦って勝って、国や民族を治めるのはもっとも手っ取り早い手段だ。だがそこに生じる犠牲は計り知れない。正しいアイヌの在り方、文化、生き方。それらを和人に正しく知ってもらい理解してもらえれば、共存という道も開けるかもしれない。

 

ただアシリパが暗号の鍵について思慮したとき、「道理さえあれば杉元と地獄に堕ちる覚悟だ」と胸に抱いた。

そして暗号の鍵を杉元が知れば、アシリパを置いてひとりで戦いに行ってしまうとも。

いったいウイルクはアシリパに何を託したのだろうか。至極簡単に考えるなら、アイヌが生き残るにはアイヌという国をつくり、統治する側になる。それぐらい過激な手段をとることもない辞さないかもしれない。争わず、生き残る手段としては常套かと思う。

しかしそれだって過酷な選択だ。

どうやったって和睦とは永遠に人間が得られないものかもしれない。

和を尊ぶ者が犠牲となり、他を配下に敷き、争いごとを禁じる法などで治めるほかない。

犠牲になるというのは、人の最も上の存在として立つ者は、多くの怒りをも買うからだ。反対する集団に対しでも心を鬼にして信念を一貫せねばならない。

民族然り、集団を統べるとは信念を貫く覚悟と、一方で残酷な判断を迫られくださねばならない。

そういった意味での「地獄」をも、アシリパは視野に入れているのではないかと思う。

【尾形深掘り回】蒼穹のファフナーから尾形の祝福を考える。

YouTubeで無料配信され始め、15年の時間を跨ぎ更に今、注目を集めている「蒼穹のファフナー

Netflixの奴隷である私は、Netflix人工知能に勧められるままに視聴し始めた。そもそもなぜ今までこれを観ずに過ごせてきたのか。それくらい、私の好みにフィットしていた。やるな、Netflix

 

さて本題は、この「蒼穹のファフナー」に登場する敵の名前が「フェストゥム」であること。

フェストゥムとはラテン語で「祝祭」を意味し、作中ではフェストゥムは人類にさらなる高次元への移行を与えよう、それが「祝福」であると語られる。

 

祝福というワードに敏感な私は、作中で描かれたほんとうの「祝福」と尾形が口にした「祝福」についてを重ね合わせた。

ネタバレを含むが、作中では最終的にフェストゥムが与えようとした、感情や意識を同化させ一体化し無に帰すことで、人類は新しいフェーズへと移行する。それがフェストゥムがもたらす祝福である一方で、人類は対話を通して人々がわかり合う個人と個人の多様性を主張した。

 

そしてフェストゥムの決まり文句である「あなたはそこにいますか」の問い。

これがストーリーが進むにつれ「そこにいる」とは「自分の居場所を保持している」と解釈される。

つまり、一体化を拒否した人類側の祝福は、自己の存在肯定であり、その場所に自分が存在していいと自身が思えることにあると、私は解釈した。

 

この流れと尾形の語った「祝福」を照らし合わせる。

祝福とは、自分の居場所、所属を明確にすることならば、それは他人からも「あなたの居場所はここだ」と認められる必要がある。

集団の中で、個としての肯定を得るには、その集団に必要とされなければいけない。

いわば、集団の中においての役割を見いだせるかどうかが、祝福に繋がるのではないだろうか。

 

前回も触れたが、尾形の行動には相手に自己の存在を認めてもらおうとする様子が窺える。

 

mozu203.hatenadiary.jp

 

これはいつもの私の妄想なのだが、生まれて初めて所属する家族という集団の中で認められなかった。祝福された道はそこにはなかった。

勇作を撃ち殺しても、尾形が祝福される世界線への分岐にはならなかった。

この時尾形にとって、祝福は与えられるものではなくなった。祝福された道の可能性、それは勇作を亡き者にすることで生まれたはずだった。どちらかの二択だ。父親が勇作の代わりに自分を愛おしくなるか、そうではないかの賭けだ。

だがその祝福トライアルでは、結局、祝福された道への分岐は絶たれた。

 

だが尾形の失敗は、対話による祝福の獲得を放棄したことだ。

消去法で可能性を浮上させたのだから、そう易々と人の愛情というものは変化しないのだ。

 

それから尾形は手土産や、アシリパとの対話という手段を学んだ。

すべては、それらは自己を受け入れてもらう手段として、有効かどうかの試行である。

 

蒼穹のファフナー」のフェストゥムも、ニールという人工知能のコアが、人間の感情などを学習していく。

尾形もまた、未発達で、人類においてのほんとうの祝福を知らない存在なのだ。

 

蒼穹のファフナー」は最終的に同化することで意思の疎通をはかるではなく、対話することで相手の意思を理解しようと試みることの大切さ。それが人間であるとの主張。それにより生まれる、自分の所在。

「私はここにいる」

フェストゥムが用いる「我々」という同化した個体を指す三人称ではなく、私という個人は「我々」の中に所属しながらも、個人であるという主張。

それが人類が選んだ「祝福」なのだ。

 

とにかく蒼穹のファフナー、めちゃくちゃストーリーと設定が凝ってて唸らせる作品なので見てほしい。

ただあちこちで評価されているように、救いのない作品であることも、一応忠告しておく。

 


🔴【同時視聴】蒼穹のファフナー【1期/01~13話】

【尾形深掘り回】山猫は家に帰る

GW期間中の無料公開分(234話)までの内容で尾形を語る。

 

前回の尾形深掘り回でも書いたが、尾形は半年もの間、土方チームを離れ単独で行動していたが、しっかり土方チームのアジトに帰還した。

そしてそのことを誰も不思議には思わないのだ。

その謎というか、尾形の動向について思うところがあった。

 

 

mozu203.hatenadiary.jp

 

尾形は単独行動期間中、それが土方の差し金であろうがなかろうが、土方チームにとって有利な情報を持ち帰ってきた。

キロランケが死んだこと、ウイルクの同胞のこと。そしておそらくアシリパが金塊隠し場所の鍵に気づいたこと。

これら重要な情報を持ち帰り、土方に与える。

必要であろうものを手に入れ、帰ってくる。

 

この行動、見覚えがないだろうか。

幼い頃、夕餉の材料にと鳥を撃ち持ち帰ったシーンだ。

 

相手にとって何か利益になるものを手に入れ、それを持ち帰る。

しかし幼少期はそれを跳ね除けられた。何かを得て帰宅するも背を向けられた幼少期。

しかし今、尾形は情報を得て帰宅し、それを受け入れられている。

 

思えば最初に土方と交渉した際も、手土産の入れ墨人皮を携えていた。

尾形にとって、人に受け入れられるかどうかを試す作業は「何かを与える」ことなのではないだろうか。

 

これは交渉術としては最も定石である。

しかし単純な人間関係において、対価を与えることで受け入れてもらえた経験は、損得勘定抜きでは人は関係性を築くことができないと植え付けてしまわないだろうか。

 

相手の利益になるものを与えれば、自分はその人に受け入れてもらえる。自分の価値を物としての対価と混同してしまう恐れもあるだろう。

 

だが尾形のすごいところは、自分が母親に受け入れられなかった原因についてを、自分だと思わなかったところだ。

「自分が母親に認められる良い子でないばかりに、母親はずっと父親の存在に依存してしまっている」

などと、自分を責めることをしなかった。

母親が希薄な父親の影に依存している原因、それのみを解決する手段に打って出た。

そしてたとえ父親が母親の死に顔を拝みにきたところで、当然ながら母親はすでに亡くなっており、尾形を愛することも受け入れることも永遠にない。

それを鑑みると、尾形は母親の愛情などどうでもよかったのではないかと思える。

ただ、母親に父親を会わせたかった。

尾形自身に、利益はまったくない行動なのだ。

 

そして勇作の死の真相を父親に告げた時も、祝福された道が自分にもあったかどうかを試したかっただけで、その事実に父親は尾形を蔑んだ。そして父親の言葉に悲しむ様子もなく、にやりと笑ったのだ。

要は尾形は母親の愛情も、父親からの祝福にも興味がない。自分に向けられる感情、それに伴うメリットを欲しないのだ。

 

多くの人が、できることなら人に愛されたり認められたりしたいと願うだろう。

おそらく尾形にはそれがないのだ。

だから自分の価値を物に付随する対価と同等と捉え、物や情報を受け取ってもらえたことを、自分が相手に認められたと認識するのだ。

 

ここまで書いてて、やっぱり尾形はなかなかおもしろいキャラクターだなと改めて思う。

まだまだ掘り下げようがある、根深い男である。

【ゴールデンカムイ妄想回】アシリパは男ではだめだったのか

昨日までナディアを見ていて気づいた。

男性と女性が主人公の作品だと、だいたいその二人は恋愛関係になる。

ナディアもそうだし、有名どころで言えばラピュタにもその気配はある。

ダーリンインザフランキスや鋼鉄城のカバネリなど、私が今パッと思いつくだけでも、男女主人公の作品は恋愛関係ないし、その傾向を想像させるような距離感や関係性の描写が多い。

おそらく視聴者も「ああ、この二人くっつくんだろうな」「作中では思いを告げる描写はないけど、きっと両思いなんだろうな」などと、なんの抵抗もなく受け入れてしまいがちだ。むしろそう考えた方が自然なくらいだ。

 

しかし、ゴールデンカムイの主人公、アシリパと杉元は異性別のダブル主人公でありながらも、恋愛的要素を感じさせる描写は一切ない。

主人公ではないが、アシリパ銀魂の神楽に近いキャラだ。あくまで主人公の銀さんの「相棒」であり一緒に暮らしていながらも、二人の恋愛関係を想像させるような描写はない。読者もこの二人にはそういった感情はないだろうという気持ちを抱くことが自然となっている(二次創作であれこれ想像するのは別。原作から恋愛的要素を想起させる表現があったかないかの話である)

 

読者のイメージの中になんとなく刷り込まれていく「ああ、この二人はそういう関係になるな」という、無意識の意識とでも言うのだろうか。

途中、杉元はアシリパに庇護欲のような気持ちを抱いていたが、結局は「相棒」に戻った。

あくまでこの二人は対等な立場なのだ。

上も下も、恋も愛もない、異性であり年齢も違うが至極対等な関係性なのだ。

 

では、私たち読者がこの男女の主人公を恋愛の括りで納めずに見られるのならば、アシリパは男でもよかったんじゃないだろうか。

そのほうが相棒という間柄としては、しっくりくるのではないだろうか。

 

なぜアシリパは女でなければいけなかったのか

仮に男だったとしよう。

父親はアイヌ民族存続を願い、山で戦えるよう育てられた少年。

父親と金塊の関連性、自分が民族を率いる覚悟。

ざっと今のアシリパに課せられた課題は、男の子だったらどう受け止めるのだろう。

 

「父さん・・・くそっ!父さんを殺した尾形も、父さんを裏切ったキロランケも許さねぇ!!」

的な展開になるんじゃなかろうか。

一応、青年漫画誌に連載されているわけだし。

同じヤンジャンで連載しているキングダムなんて、やれ親友の敵だ天下統一だと燃え上がっている。それはそれで好きなストーリーでもあるし、持ち味なのだが。

要は実際の男女差ではなく、読者がイメージしている男女のキャラクター性は、男は復讐や野心に熱くなりやすい。対して女は冷静に状況を俯瞰で見た上で判断できるし、できることなら戦いは避けたい。

そういった、仮に同じ物語でも主人公の性別が違えば、まったく別の分岐が発生する。

特にゴールデンカムイはバトルもあるが、一番に重きを置いているのはアイヌ民族がどう生き延びていくか、だとかなぜ衰退していくのかという、民族の存続的な問題なので、戦争をして勝ち取るというルートならば、負けた側は勝者に下り、結局は和人に差別された歴史を違う形で再現することになってしまうのだ。

 

ゴールデンカムイで重要なのは、戦って領土を勝ち取ることではない。

いかにして多様性を認め合うか、その方法は果たして存在するのかという物語であると私は思っている。

これはナウシカに近い。

ナウシカも戦いを好まず、自らが先頭に立ち人類とオウムたちとの共存を願う。

よってナウシカは(ここから原作の話になる)クシャナやその父であるウ”王などの共感を得て、新しい共存世界の一歩を踏み出すまでに至った。

戦わない姿勢が、多くの戦争狂の心を掴んだ。

戦わずして限りなく平和に近い、または平和へと向かうような道を探る提案ができるのは、やはり女性キャラならではだと思う。

 

なのでゴールデンカムイナウシカルートに持っていくためには、アシリパは女である必要があったのだろう。

「どうしたら残せるだろうか」

立ち止まって最良の選択はないかと考えることができるのも、女性キャラならではではないかと思う。

もちろん例外もあるし、戦いを好まない男性キャラもいるだろう。碇シンジとかもそうだ。

でも碇シンジは戦いたくない!と駄々をこねているのを、ミサトたちにハッパをかけられる側だった。

ナウシカのように、戦わずして良い道を模索し、周りの者たちにも影響を与え先導していくキャラは、やはり女性の方が見ている側がしっくりくるのだ。

 

現実では性差に対し平等性を良しとされるが、私たちが見ているフィクションの中には、それぞれの性別が与えるイメージとしての役割は大きいだろう。

そのイメージが現実の「男はこうあるべき」「女はこうだ」という重圧で改変せざるを得なくなってしまうのは残念だなと思う。

 

【ゴールデンカムイ妄想・感想回】尾形の正体【222話〜234話】

無料公開期間が過ぎてしまったので、何話だったかは確認できないが、尾形が土方チームに戻ってきた回。

たしかに門倉だか夏太郎だかキラウシだかは「野良尾形が戻ってきた」と言った。

戻ってきたのだ。

野良だと揶揄されるも、戻ってきた。

つまり尾形は己の勝手で自由に土方チームを出入りできる存在として、認識されている。

 

以前のブログで、尾形とキロランケの接点はなんなのか?みたいなことを書いた。

だが私は大きく失念していた。

尾形は知っていた。土方から聞かされていた。パルチザンの存在を。

8巻70話『アムール川から来た男』で、土方は「おそらくのっぺらぼうはアイヌに成りすました極東ロシアのパルチザンだ」と明かす。

そして監獄の外にいるというのっぺらぼうの仲間も「アイヌに成りすましたパルチザンの可能性が高い」と語る。

ここで明らかにキロランケだろ!という後ろ姿が出てくるが、この時点ではおそらく土方以外は誰もキロランケの存在を知らない。

 

だがこのあと夕張でキロランケ率いる杉元チームと土方チームが接触

そして9巻81話では、キロランケは以前村を訪れた男が土方だと答える。この時もしかすると土方はキロランケがのっぺらぼうの仲間であることを勘づいていたかもしれない。

ということは、尾形にキロランケがパルチザンであることを吹聴した可能性もあるわけだ。

網走でキロランケに加担したことは、土方に命令されたから。というのは考えにくい。なぜなら尾形が人に指示されて動くような男とは思えない。

それに夕張でアシリパがうっかり「私の父は」と口を滑らせた時、尾形はすかさずアシリパがのっぺらぼうの娘かと疑った。

タイトルにも書いてあるがあくまで私の妄想だ。考察ではない。

アシリパがのっぺらぼうの娘かもしれない。

・のっぺらぼうを殺したら、不殺の心情を抱くアシリパでも自分を殺すのではないか。それを試したい。

・のっぺらぼうを殺せる立場になるには、キロランケにつくしかない。

・キロランケに「おまえは実はパルチザンではないのか」などと脅し、協力関係を結ぶ。

 

こういった流れがあってもおかしくはないかもしれない。

しつこいようだが私の妄想である。

 

しかしもうひとつ引っかかるのは、北海道に帰還したあと、なぜ土方の元に戻ったのか、だ。

それ以前になぜ茨戸で土方に自分を売り込んだかである。

 

偶然入れ墨の噂を耳にし立ち寄った茨戸で、たまたま見かけた土方たちの側についたほうが得策だと尾形は考えた。

だから入れ墨を手に入れる必要があったのだ。それがあれば土方陣営に加入できるから。

 

ということは、尾形は孤高を気取りながらも、単独行動では不利なことも理解していた。

だから入れ墨という手土産や、相手の弱みに漬け込み協力関係を結ぶなどして必ずどこかの集団の中で行動していた。いわば渡り歩いているのだ。自分に一番都合のいい場所へ都合のいい時に。

 

こいつもしかして、めちゃくちゃ世渡りうまくないか?

 

北海道を離れていた間、けっこうな月日があった。

網走監獄潜入時、ちょうど鮭の収穫時期だった。ということは季節は秋だ。それから流氷が溶け、春になった。半年位経っている。

その間、行方をくらましていたにも関わらず、ふらっと戻ってきてもあたりまえのように受け入れている土方陣営。

家族かよ!!!!

放浪息子が戻ってきたわね、みたいな。

「あら今回は早かったわね」ぐらいの、あっけらかんとした雰囲気、なんだよ。

そのあと白髪だハゲだできゃっきゃしながら白鳥鍋食って。

団欒かよ!!!!

 

というか、右目を失ったせいで狙撃の精度がかなり落ちてしまっているようだが。

撃ち損じたあとの「ははっ」って何?

どんな気持ちで「ははっ」って笑ってんの?

これ、国語の試験だったらせめて4択じゃないと「ははっ」の意味なんて答えられないよ。

普段の生活で「ははっ」って乾いたように笑うことある?つまらない冗談に無理して笑う時しかしないのに、アイデンティティである狙撃ができなくなった時に「ははっ」なんて笑える心境はなんなんだ。

なにが「ははっ」だ。笑ってる場合じゃないだろ!!!

 

杉元たちも、精度のいい狙撃をされたからってすぐに尾形を疑うんじゃないよ。

君ら尾形が大事な右目を失ったことしってるでしょ?この目で見たでしょ?

狙撃=尾形の認識が右目の損失を上回ってるの、すごいな。よかったな尾形、みんな今でも尾形が最高の狙撃手だって思ってくれてるよ。

【ゴールデンカムイ感想回】鶴見と愛戦士とオキシトシンの関係【222話~234話 鶴見・宇佐美編】

鶴見が戦争で目の当たりにした「発砲する振りをする兵士たち」

あたりまえよね。

たとえいくら訓練を積んだって、訓練で人を殺すことはないもの。それがいかに敵国の兵士であっても、相手は人間。罪に問われなくても彼らの中で「人を殺した」という事実には変えられない。

 

しかし鶴見は気づいてしまった。

名前は出さなかった、いやこの当時まだ発見されてたのかどうかも怪しいから知るはずもない、オキシトシンというホルモンの存在を。

 

オキシトシンは、「愛と絆のホルモン」や「幸せホルモン」などと呼ばれるホルモンだ。

このオキシトシンが脳の視床下部から分泌されると、多幸感や他人への信頼感、親密な人間関係を結ぼうとする、不安や恐怖心が減少する。など、とにかくストレス社会で生きる私たちにも嬉しい効果がたくさんなのだ。

 

しかし、このオキシトシンにはダークサイド「負の側面」が存在する。

オキシトシンによって他者への信頼感が増す、絆が絆が強くなる。しかしこれは、自分が仲間だと認めた人間の間にだけ発動する。

家族間であれば家族の絆が深まる。

学校ではクラスメイト同士の団結力が増す。

つまり、ひとつの集団としての絆は強くなるが、それ以外の人間に対してはどうなのだろうか。

 

よく道徳の授業で用いられる「トロッコ実験」を知っているだろうか。

暴走するトロッコから五人を救い出さなければならない。しかしその際、一人の犠牲がどうしても出てしまう。

この実験をオキシトシンを嗅がせた被験者で行った場合、オキシトシンの匂いを嗅いだオランダ人男性は、嗅いでいない被験者に比べ、他国の被験者よりも自国の被験者を優先して助ける傾向があった。と、報告されている。

 

詳しく知りたい人はこれを読め。

「愛情ホルモン」オキシトシンのダークサイド|WIRED.jp

 

同じヤンジャンで連載中の漫画「キングダム」に、弓矢が抜群にうまい兄弟がいる。
兄の方は実践でも人を射つことができたが、弟は人間に対し弓を引くことができなかった。
弟の分も矢を放つ兄は、ついに敵に討たれてしまう。あと一撃で命が危ないというその時、弟が敵兵士に向けて矢を放ち、兄は一命を取り留めた。

兄弟愛が、弟を敵を殺める兵士へと駆り立てたのだ。

 

これが鶴見の言った「他国の兵士を殺せる兵士にするのに必要なのは愛」の真相なのだ。

愛情という絆で結ばれた集団は、その集団を守るためなら相手を殺すことにも罪悪感を抱かなくなる。

なぜなら殺した、殺さなければならなかった正当な理由が自分の中に生まれるからだ。

法律に触れる触れない以前に「自分がこいつを殺したことは正しい行為だった」と思える理由があれば、罪悪感は生まれないのだ。

 

mozu203.hatenadiary.jp

 

補足だが、オキシトシンが分泌される方法のひとつに「感動する」がある。

感動を与えられた瞬間、愛情ホルモンがドッバドバ出てるわけだ。もう、そしたらそこで強い絆が生まれる。

輪の外に攻撃的になれる。それが愛情で生まれた団結力。

 

序盤で鶴見がヒトラーよろしく演説していた「我々の絆はもっと強くなる」

 

脅しでも罰でもなく、愛。愛は裏返せば攻撃的なのだ。

自国を守るため、ルールを守らない人間に対して過剰なまでの制裁を独自に下す。

最近目にしたり耳にしたりすることがあるだろう。

私はこれを「サンクション(制裁)麻薬」と呼んでいる。

集団を乱す者へ制裁を加えることでも、オキシトシンは分泌されるらしい。

 

これに気づいた鶴見は、宇佐美をはじめ鯉登、月島、尾形などを懐柔していく。

愛をもって、絶対的な忠誠心をもった兵士に仕立て上げた。尾形は失敗したが、まああいつはそういう、なんていうか、自由な子だから。

 

網走のあたりから宇佐美に抱いていた怖気は、やっぱり杞憂ではなかったか。

私はなぜか尾形よりも、宇佐美に対し異常な恐怖感をもっていたんだが、やはり胸が冷えるような凶暴性を孕んでいたとは。

しかもそれを表面化させず、ここまで「怖い」と思わせるキャラクターの動かし方。なんなんだ野田サトル。バケモノか。

 

なんだろう。

怒りを抑えながら自分を納得させようとしている仕草が「あ、こいつやべぇやつだ」「でもこういう人、いるな」っていう、やばい人だけど非現実的ではない。

どんなにトチ狂った個性的なキャラクターでも、現実にいそう。と思えてしまう人間味がある。そこがキャラクターの魅力であるんだろう。親近感が沸く・・・いや、親近感はちょっと言いすぎたわ。

 

まとめると、愛は罪悪感に勝つ!愛は勝つ

 

あ、ここまで書き終わって思い出した。

宇佐美の凶悪性を内包した感じ、「こういう人いるわ」じゃなくてあれは「殺し屋イチ」だ。(でも書き直さない。もう眠いから)

【ゴールデンカムイ感想回】強く美しい人【222話~234話 家永・インカラマッ編】

ヤンジャン、GW無料公開ということで、本誌連載閲読から単行本へ切り替わった後から公開されているまでの14話を一気に読んだ。

一気に読んだので、感想の濁流で脳みそが氾濫しそうなので、そのままここにアウトプットすると、今度は私の処理能力が追いつかなくなる。最悪オーバーヒートを起こす。

なのでキャラクターごとに絞って感想を書いていく。

 

まず222話~234話の中でもっとも衝撃的で感情を揺さぶられた、家永とインカラマッに焦点を当ててい・・・。

 

家永ァアァぁァアアァあぁあ!!!!

(すでに感情の防波堤が決壊)

もちろん家永がリタイアしたこともショックだが、230話の頭、腹から血を流して倒れた家永が、黒い服を血のベタによりもっとも憧れ美の完成形と評していた、妊婦のシルエットになっている。この表現よ。

常に美や若さや強さ、最高の自分を作り上げるために罪を犯してきた男(うっかり忘れそうになるがじいさんなんだよな)が、死して完全体へとなったかのような描写。

家永の完成形が自分の身体から出た血液によって形づくられた妊婦の姿だったと、誰が想像できた?

美しさの象徴だと語った妊婦の腹部の曲線が、奇しくも自らの美のために取り込んできた数多の血液で描かれるとは、誰も想像できなかったでしょ?

 

子を宿した母体の曲線美に魅入られ、子を生んだ母親に聖母のような理想を抱いたまま、それを目にすることは叶わなかった家永少年。

見たことがないから、彼の中では永遠に完成することのない理想像として胸の中にあったのだ。

しかそれは、家永がどんなに他人から欲しいものを取り込もうが、それによって実年齢にそぐわない美貌を手に入れても、絶対に得られないもの。

それが、それがだよ。

何十年と胸中に抱き続けてきた理想像を守るために命を賭したがために、その姿で最期を迎えたってアンタ・・・。

 

あんまりこの言葉は使いたくはないんだけど、もう言語野の仕組み上、これしか出てこない。

 

エモすぎるだろ!!!!

 

完璧な母親を求めて三千里(どころではない)

どんなに凶悪犯だったとしても、どんなに無慈悲に、自分を完璧にするために人を殺めたとしても、生きてそこへはたどり着けなかった。

きっと、いや当然家永もそれはわかっていたはずだ。

 

この家永の結末は、彼が完璧を求め続けた結果として「よかったね」と言ってあげるべきなのだろうか。

でも「インカラマッさんが産むのを手伝いたい」と言った家永の願いは叶えられなかったね。

もし家永がインカラマッと谷垣の子供を取り上げていたら、どんな感動を彼に与えていたのだろうか。

目にすることが叶わなかった、赤子を抱いた母を重ねることができたのだろうか。

 

今思えば、アシリパの目を狙った家永に、百年後くらいにカラコンというとっても便利なものが発明されてると教えてあげたかった。

あとね、「ヒトプラセンタ」っていうサプリも誕生するの。わざわざ胎盤を食べなくてもいいのよ。海外からネットで個人輸入できるの。便利な時代でしょう?

私は怖くて手を出せなかったけど。

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インカラマッの出産だけど、アイヌ文化を継承している人も少ない中で、さらに産婆経験のある方のお話を取材できてたってことに驚いた。

これ、かなり貴重なシーンだと思う。

 

現在の日本のお産って、アイヌのように男女で取り出し方が違うって、聞いたことがないけど、これにはどんな意味があるんだろう。

もちろん作中に書かれている「長生きできるかどうか」にまつわる根拠があるのではないかと、これまでのアイヌ文化を見ていると感じてしまうのだ。

アイヌ文化には、非科学的なまじないのように見えて、実は合理的な部分が多い。

イオマンテにしても、小熊を敢えて育てて大きくするのは、そっちのほうが食べられる肉の量も多い。

そういった合理的な「生きる知恵」が、アイヌ文化の特徴であるような、ほかの文化にも見られることなのかはここでは言及しないでおく。(というかそこまで調べる時間がないのが正直なところなんだが)

 

現代の産婆の知識は知らんが、綿で肛門を押さえ(おそらくいきんで便が排出されるのを防ぐ役目だと思うが)性別によって胎児を回転させながら娩出というのは、へその緒の絡まり防止のような気がする。

 

それにしても、月島に神通力を行った際に見えたものはなんだったのだろうか。

月島に伝えることを躊躇う様子がないところを見ると、どこかで生きていると思いたい。だからこそ月島は聞かない選択を選んだのかもしれない。

もし、すでに亡くなっているのであれば、インカラマッはもっと悲しげな表情を見せたはずだ。そうではないのだとすると、どこかでいご草ちゃんは生きている。であれば、会いに行きたくなってしまう。

月島はそれを恐れたのかもしれない。

会いたいと願ってしまう自分の心を。

 

それにしれも、谷垣、インカラマッ、チカパシの、その場しのぎのはずだった擬似家族が、それぞれほんとうの家族になれたことは、この漫画の中でものすごく大きな意味があるだろう。

 

親子二代に渡って懐柔された兵士たち。

親の希望を背負わされた子供。

家族を亡くした者。

この漫画で、初めて血のつながりに希望を持たせた回だったと思う。

 

しかし一発で仕込んでしまうとは。

きっとラッコちゃん(勝手に今つけた)は強い子になるぞ!!