どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【尾形深掘り回】目に見えるものがすべてではない【ゴールデンカムイ無料期間一気読み】

久しぶりの感想です。

そもそもこのブログの発端は「尾形、おまえ何がしたいんだ」って動機から始まったのだから、答え合わせをしなければいけない。

つっても、さんざん狂ったようにあれこれ考えた尾形百之助というキャラクターの本意という的をひとつも射抜けなかったわけでして。まあそれも深層心理の部分が描写されていなかったっていう言い訳じみたことでお茶を濁したい。

 

単行本でじっくり読みたいので、アプリ版はサラッと読んだのだが、「そうきたか!」というのが率直な感想だ。

しかも土方や牛山があんなかっこいい死に様を見せたあとでの、尾形、おまえだけ「私ごとでございますが…」じゃねぇか。

自分が抱いているはずがない罪悪感に気づかされた過去の自分との問答シーンは、テレビ版エヴァ第二十五話「終わる世界」での、文字やキャラクターが質問を投げかけ、パイプ椅子に座った当事者がそれに答えるシーンを彷彿とさせた。改めてその回を見直すと、質問を投げかけているキャラは当人の心の中にいるキャラだった。そこに当てはめると、尾形の心の中にいる勇作、つまりは尾形の印象としての勇作だったのだろうか。すごくうまい描写だなと思った。

現実でもたとえば友人、知人において、それらが自分をどう捉えているかは、自分の中にある彼ら彼女らのイメージでしかない。

「あの人はきっと私を嫌っている」というイメージが固まると、事実がどうであれ「あの人は私を嫌っているに違いない」と固定されるのと似ている気がする。

 

そして皆がアシㇼパに襷を託しながら志半ばに死んでいく、それも誰かの譲れない正義によって命を絶たれていく中で、尾形だけは誰にも死を与えられなかった。

アシㇼパの不殺の信条を打ち砕いたが、それでも彼を死に至らしめたのは自分自身だった。

あの左目を撃ったのは、カウボーイビバップファンからすると、片目が義眼であった主人公スパイクの「この目(義眼では無い方)は過去しか映さないのさ」を彷彿とさせた。

過去の自分を省みるうちに、自分は愛情のない親から生まれた欠けた人間であるというアイデンティティが揺らいだ。しかしどこかで、愛情は流動的であり多面的であるという事実、つまりは尾形が愛情を欲しかった瞬間に向けられなかったという事実だけが、ほかの瞬間に向けられていた愛情をなかったことにしてしまった。

たしかにあったはずの愛情や祝福というものは、存外別な側面から送られている場合もある。しかしそれを認めてしまえば、祝福されなかった子というアイデンティティが崩壊してしまう。

このジレンマに私は気付かされたのだ。

 

ここからは少し重い私の経験談になる。

かつて私も母親から「腹の中に戻したい」「刺し違えてもいい」と言われたことがあった。

その時私は、親とはいえ、無償の愛は絶対ではないのだと悟った。

それが尾を引き、私も尾形のように親に愛されなかった子供として悲劇のヒロインのような振る舞いをした時もあった。いや、この回を読むまでそう思っていた。

だが、母親の言葉はその時の感情のひとつにすぎず、それは本心だったと思うが、思い返せばまったく愛されていなかったわけではないと気づいたのだ。

そう、尾形も鳥をとってきても母親に見向きもされなかった瞬間だけを、無情と感じ、それ以外の母親の愛情から目を背け、その瞬間の感情のみが自分に向けられたすべてだと思い込んでいたのだ。

 

私は以前もここに書いたと思うが、尾形が狙撃手の命とも言われる目を失ってからの復活劇に「おまえだけは生きることを手放さないでくれ!」と、大袈裟だが自分の人生を託したような気になっていた。

しかし尾形の最期を見て「私は過去の魔物に捕らわれず生きるよ」と、人生を託すどころか手を振り別な道を歩もうと思ったのだ。

いやこれね、ぶっちゃけて言うと「しくじり先生」みたいなもんなのよ。

出世ガチャとかいろいろ言ってきたけど、大変理不尽なことに生まれはガチャでしかない。配られたカードで組んだデッキでデュエルするしかないのよ、人生は。別に決闘しなくてもいいんだけど。

たしかに「あんたが待ち望んでいたものはこんな薄っぺらなものだった」と証明してみせるのもまたデュエルよ。けどね、それで自分のゴールが自分によって覆された時の絶望たるや否や。しかもそれを最後まで勇作さんによってもたらされたものだと、自身に追い討ちをかける結果となってしまった。あのメンツの中で唯一、誰にも殺されなかったというアンチテーゼのようなものを感じて、なんとも業が深いなと思った。

更に言うと、これは完全に私の憶測で批判もひとつやふたつじゃ済まないと思ってるけど、ヴァシリ戦での異常なまでの集中力の高さ。実際にスナイパーの人が、狙撃はいかに狙い所を待つかという全ての意識を対象に向け、生理現象さえも後回しにするエピソードを聞いた事があるが、それを踏まえても突出していると感じていた。

そこに勇作の幻影。過去との問答。

おまえ、メタンフェタミンをキメすぎたのでは?

と、思うことでこれらがすべて腑に落ちる。

ちなみにメタンフェタミンゴールデンカムイでは二階堂でおなじみ?の、まあ、覚せい剤の原料だ。そこから第二次世界大戦のあたりで、疲労がポンのヒロポンが生まれるわけだが、飛び抜けた集中力と幻覚という二点を納得させる材料はメタンフェタミンがいちばんに頭に浮かんでしまうのだ。

 

さて尾形の台詞の中でも印象深い「親殺しは巣立ちのための通過儀礼だ」は、ギリシャ神話で有名なスフィンクスの謎かけ(最初は四本足、次は二本足、最後は三本足、これな〜んだ、のやつ)を解いた、オイディプス王の神話に基づいたものだと思われるのだが、その神話ではオイディプス王は最期に自責の念に駆られて両目を潰したという説がある。

作者がこの神話に尾形をなぞらえたのかどうかはわからんが、もしかして最期は両目を…などと思っていたら本当にやっちまったので驚いた。

なんか最後は勇作が絵画の前で死んだ少年を天へ導く天使みたいになってたが、境遇により生み出されてしまったが半分、それにより自らで生み出してしまった呪縛を解く方法が自死であるのは、なんとも気の毒である。

だがゴールデンカムイのサブテーマでもある「天から役目なしに下ろされた者はいない」に基づくと、尾形の役目はアシㇼパにイマイチ踏ん切りのつかなかった戦う覚悟を完成させる役目だったのかもしれない。

杉元が洋平に言った「うるせぇな!これは殺し合いだろ」という台詞が、まさに今ここで起こっていることが、残酷なまでに命を奪い合う場だと読者にも突きつけてきた。

そして何話だかの煽り文にもあったように「戦争は誰が正しいのかを決めるのではない。誰が生き残るかを決めるのだ」(黒富野ガンダムにありそうないい文言だ)

これは戦争であるという現実をアシㇼパに植え付けるための最後のピースだったのか。

それを裏付けるような、アシㇼパが毒矢を放った瞬間、杉元の目が一瞬輝いたように見えた。放心して色が失われたともとれるが、私にはこれでようやくアシㇼパさんと対等に戦える。という、思っちゃいけないことだけど、感情には出てしまった描写に思える。

 

残り三話、果たしてあの列車は地獄行きとなるのだろうか。