187話「尾形、おまえいったい何がしたいんや」
「父さんは嘘つきじゃなかったんだ!アムールトラはほんとうにいたんだ!」
ここをスルーして今回のブログを書けるほど、私はラピュタに対して無関心ではいられないのだ。
いやもうそんな悠長なことを言ってる場合ではないじゃないか。
なんだあの白目は!あの白目から煙が出ている!(たぶん眼光だ)
とうとう本性を現しやがった。現してしまったのだ・・・。
もうさんっざんあれこれ考査したが、ぜーんぶ水の泡。
いや、なんかどこかで尾形にも確固たる目的というか信念があったのかなって思いたかったのかもしれない。
尾形よ、非道であれ。なんて言っておきながら、非道になれるのは何かの信念ゆえなのだと。理由があっての非道さという免罪符を与えたかったのかもしれない。私は。
だが違った。
かんっぜんにコンプレックスからじゃねーか!!!!
自分の歪んだ出自、不遇な血筋。それがどこまで、誰にまで通用するのかを試したかっただけじゃねーか!!!
尾形の生き方に機能美のようなものを感じていたのは事実だ。
だがあまりにも、尾形は私が想像していた以上にある意味では純粋だったのだ。
「あーあ、やっぱり俺では駄目か」
清い人間。人を殺すこと善しとしない人間に勇作さんを重ねていたのだ。あの時から、尾形の狙いは、アシリパさんの「不殺の誓い」を試してみたいという衝動に駆られていたのだ。
なんということか。
清い人間なんていていいはずがない。
それだけが、尾形を肯定してくれる。自分の不遇の運命を肯定してくれる唯一の「事実」であるのだ。
尾形はきっと、自分が救われるために試し続けたのだろう。
「いていいはずのない人間」だった、妾腹だった自分が、そうではないと確認できる手段は、清い人間の手を血で染めることだったのだろう。
めちゃくちゃ悲しいな。
そうでなければ自らが「救われた」と思えない人生って。
でもなんとなくわかるんだ。
堕落した人間を見ると安心する私にも、覚えがある。
キラキラとした人生を送る人間に、なんらかの落ち度があればいいのにと。そうしたら、私だけが異端ではないと少しでも安心できる。
なーんだ結局みんな私と同じクズな部分もあるんじゃーんって。そうでなければ、私は自分の存在を社会の底辺だと否定し続けて生きねばならないから。
だが尾形のように相手をも陥れようとする頭も行動力も残念ながら私にはない。
尾形の方が、よっぽど自身を尊重したいともがいている。生に対して貪欲であるように思える。
そのために、同じ釜の飯を食い、短い間だが寝食を共にした相手を、あそこまで冷酷に追い詰められる。やってることは冷酷で傲慢だが、自分に与えられてしまった運命に抗おうとする姿には正直美しいとさえ思えた。
そんな感情を持ってしまう私も、あちこち欠けた人間だからなのだろうが。
いやーでもしかし、杉元が最後に食べたいものを聞かれて、あんこう鍋はないだろ。
もうだいぶ万策尽きたって感じだな。
まあここまでど悪党ぶりを晒してしまった尾形に、復活の道はもうないだろうなと覚悟している。
ここから信用を挽回することはもう不可能だし、バーサク状態の杉元に勝てる気もしない。
なによりストーリー的にもう戻れる場所はないんじゃないかと思える。
ここで尾形、ターンエンドか。
ほんとうにこの漫画は、親の呪縛に苦しめられる描写が多いな。ということはそれが、アイヌ文化の存続というこの漫画のテーマの裏に潜む、親が子に与えた呪いにも似た使命に対して、どう振り切り自分の意思で道を決めるのか、というアシリパさんの金塊に対する選択が鍵になるのかもしれない。
親の意思も親の不貞による不憫な出自も、理想も、すべて自分で断ち切っったっていいんだよ。
っていうメッセージがあるのかもしれないね。
【追記】
一晩考えて、あの炭鉱トロッコレースのあとに合流した時に、リパさんのお父さんがのっぺらぼうなのか?と、尾形が気づいたシーン。あの時からすでに尾形の計画は始まっていたのかな?・・と。
敵兵とはいえ、誰ともわからぬロシア兵を撃てというより、肉親を殺した相手ならばどんなに不殺を信条としている人間ですら殺すのではないか。
尾形にとってのっぺらぼうが金塊を強奪した犯人だろうが、パルチザンだろうがどうでもよかった。むしろ尾形はのっぺらぼうとしてではなく、単にリパさんの「父親」だから殺したのではないか。
そうするためには、キロランケの方につくことが自然だった。
のっぺらぼう、つまりウイルクを始末したい人間と組む必要があった。リパさんの父親を自分が殺すために。
そしてリパさんの不殺の信条をぶち壊し、どんな清い人間でも憎しみに駆られれば皆、自分と同じなんだと自らを肯定するために。
これね、尾形すごく非道で卑怯な人間に見えるでしょう。
いや、まともな感覚を持っていたらそうなんだろうけど、私は違うんだよ。
自分の不遇を誰かや世間のせいだと文句ばっかり言って、不貞腐れているよりも、尾形はとても自分のことを大切にしようとしているんじゃないかって。
「そんな人間いていいはずがない」
と、勇作さんに自分を全否定されながらも、そうではない。自分のような人間はいるはずだ。自分だけは決して自分を否定しない。自分を肯定できるのは、自分しかいないんだって。
だって私なら、あんな清い眼差しと心で「そんな人間いていいはずがない」なんて全否定されたら、もう立ち直れないよ。
正義の代表であるかのような軍神に、そんなこと言われたらもう目も当てられないよ。
正義の審判をくだされて社会から異端として追放された気分になっちゃうよ。もう家から二度と出ねぇよ。
なのに尾形はどうやっても自分を肯定することをやめなかった。
生きることを止めなかった。
これって、人間としてすごく泥臭くて見にくいけど、生命としては純粋でとても美しいものかのように見えた、私には。
私のように、世間に中指立てるだけで、何もせず生きているような人間からしたら。
という感じで、かなり主観で尾形を過大評価するような内容になってしまったが、「そんな人間いていいはずがない」なんて台詞は、人類の誰にも言う資格なんてない。
勇作さんにだって、尾形にだって。
尾形はきっと勇作さんのあの一言が、正義のバットで頭をぶん殴られたような強いショックを受けたんだろうな。
理由があれば罪悪感など感じない。
尾形が出した、人を殺すことで生じる罪の意識からの逃れ方は、「憎しみ」だったんだね。
そう、憎しみがあれば殺す理由が正当化される。
情状酌量ってやつね。月島さんもそうだし。
尾形はリパさんに勇作さんのような、偶像を重ね、恐れていたのかもしれない。
たしかに、アイヌの未来を導く偶像のような存在として育てられた。杉元の言うようにジャンヌ・ダルクのようなね。
尾形は憧れていたのだろうか。いや、偶像こそ汚れてほしい。そして手の届かぬ場所から見下ろされるのではなく、自分たちと同じ場所まで引きずり下ろしたい。そう思っていたのかもしれない。
皆、同じ境遇、同じライン。自分だけが暗い底辺にいるんだったら、それはあまりにも不憫だから。