どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

215話「アイヌのジャンヌダルク」

クリオネって、シラウオみたいに踊り食いできるのかと一瞬思ったが、やっぱり名前のない生き物だったか。じゃあクリオネの生まれてきた意味とはいったい…?(観賞用です)

尾形はファッションセンスがないから、軍服しか着ようとしないんだ。
馬といい、服といい、尾形は盗んでばかりだな。15の夜かよ。窓ガラス割っちゃうのかよ。支配からも卒業してるしな。
しかしほんとうに逞しい男だよ、アンタ。
片目を失っても尚、接近戦に切り替えようとはしない。あくまで狙撃。死ぬまで銃と共に生きるというのか。指がもげようが、ぶっ壊れるまで己の身を使い果たそうとするように。…なんてことは思っちゃいないだろうよ。
あの男は、自分が生き延びるための必要な道具として銃を酷使する。狙撃は尾形のアイデンティティなのだ。片目を失ったくらいでは、アイデンティティを奪われたとすら思わない男だ。
尾形が右目を失った時、私はもう尾形から何も奪わないでくれと泣いた。
しかし尾形、こっちの消失感と絶望なんて知ったこっちゃねぇと言わんばかりの復活劇を繰り広げやがった。
医者を騙し、脅し、鯉登に嫌味を言い、布切れ一枚羽織って馬に跨り両手を広げ、実に楽しそうに逃げていった。
あれを見た時私は「あ、こいつもただじゃ死なん男だな」と思った。なにも案ずることはないと。我々の心配をよそに、我々のあずかり知らぬ目的のために、悠々と生き延びていた。落胆していたのは私たちだけだった。
思えばそうだ。
この男は笑っていたのだ。
アシリパが矢を放ち、尾形の右目を射抜いた時、狙撃手として大切な右目に毒矢が刺さろうが、失望するどころか笑っていたのだ。
尾形という男は、すでに命などどこかに落っことしてきたのかもしれない。落とした命がいつなくなろうが、始めからないものに執着など抱かない。そんな軽いもので、相手の信条を汚すことができるのなら、尾形にとってはお釣りがくるくらい、命に価値が生まれるのだろう。

たった一コマしか出ていない尾形について語るのはこれくらいにして、ついにアシリパが腹を括った。
「弾除け」というワードは勇作が二百三高地の旗手であった時にも出てきた。
勇作にあてがわれた「弾除け」の意味は、偶像としてのいわば魔よけのような不確かなものであった。人の心を鼓舞する、概念としての「弾除け」だ。
だが今のアシリパに与えられた「弾除け」の意味は物理的に、だ。アシリパはこの金塊争奪戦における重要な人間だ。アシリパが人皮に記された暗号の鍵を吐かない限り、彼女は文字通り金塊を欲する人間たちの盾となる。
私はこの異なる「弾除け」にあたる二人の対比がおもしろいと感じた。
一方は概念、一方は物理。
尾形はアシリパも勇作と同じく、偶像であると捉えた。
だがアシリパは今、自分が単なる偶像として先頭に立つだけでは済まされないと腹を括ったのだ。
人を殺さず、それゆえにシンボル的な存在を要求された勝利の偶像である勇作に、尾形はそんな清い人間がいていいはずがないと銃を向けた。アシリパにも同じ理由で銃を向けたが、意図せずアシリパは尾形に向けて毒矢を放ってしまった。結果的に尾形は死なず、アシリパの不殺の信条は守られたわけだが、アシリパはそれではアイヌを守ることはできないと判断した。
必要があれば杉元と共に地獄に落ちようと。
尾形はもしかするとこの物語の、客観性という役割も担っているのかもしれない。物語全体を客観視するのではなく、国を、民族を守るため、途絶えさせぬためには、人を殺めることは必要かどうかを読者に議論させる立場にあると思う。
尾形の考えに同意するかどうかではなく、尾形の言動が私たちにそれを考えさせる一石を投じる役目を果たしているのではないかと。

そしてここで、偶像であった二人の信条は分岐したのだ。
不殺を貫き命を奪われた勇作に対し、アシリパは先頭に立ち、自らも手を汚す覚悟を決めて。
この決断に至るには、杉元の存在が大きいが、ウイルクを知ったこともかなり影響している。
彼女は父が躊躇わず人を殺めてまでも守ろうとしたアイヌという少数民族が、今、危機に晒されているという現実を受け止めることができたのではないか。ぼんやりと、今の生活が続くと思っていた。しかし自分の父親はかなり早い段階で、文化が消え、信じる神さえもあやふやになってしまうことを恐れた。
文化や信仰が消えてしまう。
今の私たちにはピンとこない。なぜなら文化も信仰も、生活においてそれほど重要なものではないからだ。
しかしアイヌ民族は違う。
彼らが生活していく上で必要な、生きる術は、代々受け継がれてきた信仰によって作られてきたものだからだ。
神から生き物を与えられ命を繋いでいる。
その教えがあって、彼らは宿る命を大切にしそれを取り込んで命をまた次の世代へと授けてきたのだ。
そのアイヌの信仰や文化が途絶えた時、彼らが大切にしてきた『生き方』までもが消えてしまう。

今でこそ時代に沿って生き方を変えていかねば追いつけないが、きっとそのあたりは私たちとは価値観が大きく違うのだ。
そして、そうやって戦ってきた人間がいたおかげで、私たちは今日本という国で日本人を名乗ることができている。だから戦うこと、それで命を奪うこと、奪われること。戦争はあってはならないが、無意味だったとは否定できない。無意味と称してしまうなら、命を落とし、悩み、選んだ過去の人間達を否定することになってしまう。
だが今の私たちは、命のやりとりをせずとも守るための知恵と方法を得ている。
アシリパが人を殺めることも厭わないと決断したことを、非道だとは責められない。それがあの時代だからだ。
ゴールデンカムイは史実ではないが、かつてアシリパのように決断した人間の先に、きっと私たちは生きているのだ。