どぶろく

ゴールデンカムイの感想や個人的に気になったことをまとめています。

【尾形深掘り回】山猫は家に帰る

GW期間中の無料公開分(234話)までの内容で尾形を語る。

 

前回の尾形深掘り回でも書いたが、尾形は半年もの間、土方チームを離れ単独で行動していたが、しっかり土方チームのアジトに帰還した。

そしてそのことを誰も不思議には思わないのだ。

その謎というか、尾形の動向について思うところがあった。

 

 

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尾形は単独行動期間中、それが土方の差し金であろうがなかろうが、土方チームにとって有利な情報を持ち帰ってきた。

キロランケが死んだこと、ウイルクの同胞のこと。そしておそらくアシリパが金塊隠し場所の鍵に気づいたこと。

これら重要な情報を持ち帰り、土方に与える。

必要であろうものを手に入れ、帰ってくる。

 

この行動、見覚えがないだろうか。

幼い頃、夕餉の材料にと鳥を撃ち持ち帰ったシーンだ。

 

相手にとって何か利益になるものを手に入れ、それを持ち帰る。

しかし幼少期はそれを跳ね除けられた。何かを得て帰宅するも背を向けられた幼少期。

しかし今、尾形は情報を得て帰宅し、それを受け入れられている。

 

思えば最初に土方と交渉した際も、手土産の入れ墨人皮を携えていた。

尾形にとって、人に受け入れられるかどうかを試す作業は「何かを与える」ことなのではないだろうか。

 

これは交渉術としては最も定石である。

しかし単純な人間関係において、対価を与えることで受け入れてもらえた経験は、損得勘定抜きでは人は関係性を築くことができないと植え付けてしまわないだろうか。

 

相手の利益になるものを与えれば、自分はその人に受け入れてもらえる。自分の価値を物としての対価と混同してしまう恐れもあるだろう。

 

だが尾形のすごいところは、自分が母親に受け入れられなかった原因についてを、自分だと思わなかったところだ。

「自分が母親に認められる良い子でないばかりに、母親はずっと父親の存在に依存してしまっている」

などと、自分を責めることをしなかった。

母親が希薄な父親の影に依存している原因、それのみを解決する手段に打って出た。

そしてたとえ父親が母親の死に顔を拝みにきたところで、当然ながら母親はすでに亡くなっており、尾形を愛することも受け入れることも永遠にない。

それを鑑みると、尾形は母親の愛情などどうでもよかったのではないかと思える。

ただ、母親に父親を会わせたかった。

尾形自身に、利益はまったくない行動なのだ。

 

そして勇作の死の真相を父親に告げた時も、祝福された道が自分にもあったかどうかを試したかっただけで、その事実に父親は尾形を蔑んだ。そして父親の言葉に悲しむ様子もなく、にやりと笑ったのだ。

要は尾形は母親の愛情も、父親からの祝福にも興味がない。自分に向けられる感情、それに伴うメリットを欲しないのだ。

 

多くの人が、できることなら人に愛されたり認められたりしたいと願うだろう。

おそらく尾形にはそれがないのだ。

だから自分の価値を物に付随する対価と同等と捉え、物や情報を受け取ってもらえたことを、自分が相手に認められたと認識するのだ。

 

ここまで書いてて、やっぱり尾形はなかなかおもしろいキャラクターだなと改めて思う。

まだまだ掘り下げようがある、根深い男である。

【ゴールデンカムイ妄想回】アシリパは男ではだめだったのか

昨日までナディアを見ていて気づいた。

男性と女性が主人公の作品だと、だいたいその二人は恋愛関係になる。

ナディアもそうだし、有名どころで言えばラピュタにもその気配はある。

ダーリンインザフランキスや鋼鉄城のカバネリなど、私が今パッと思いつくだけでも、男女主人公の作品は恋愛関係ないし、その傾向を想像させるような距離感や関係性の描写が多い。

おそらく視聴者も「ああ、この二人くっつくんだろうな」「作中では思いを告げる描写はないけど、きっと両思いなんだろうな」などと、なんの抵抗もなく受け入れてしまいがちだ。むしろそう考えた方が自然なくらいだ。

 

しかし、ゴールデンカムイの主人公、アシリパと杉元は異性別のダブル主人公でありながらも、恋愛的要素を感じさせる描写は一切ない。

主人公ではないが、アシリパ銀魂の神楽に近いキャラだ。あくまで主人公の銀さんの「相棒」であり一緒に暮らしていながらも、二人の恋愛関係を想像させるような描写はない。読者もこの二人にはそういった感情はないだろうという気持ちを抱くことが自然となっている(二次創作であれこれ想像するのは別。原作から恋愛的要素を想起させる表現があったかないかの話である)

 

読者のイメージの中になんとなく刷り込まれていく「ああ、この二人はそういう関係になるな」という、無意識の意識とでも言うのだろうか。

途中、杉元はアシリパに庇護欲のような気持ちを抱いていたが、結局は「相棒」に戻った。

あくまでこの二人は対等な立場なのだ。

上も下も、恋も愛もない、異性であり年齢も違うが至極対等な関係性なのだ。

 

では、私たち読者がこの男女の主人公を恋愛の括りで納めずに見られるのならば、アシリパは男でもよかったんじゃないだろうか。

そのほうが相棒という間柄としては、しっくりくるのではないだろうか。

 

なぜアシリパは女でなければいけなかったのか

仮に男だったとしよう。

父親はアイヌ民族存続を願い、山で戦えるよう育てられた少年。

父親と金塊の関連性、自分が民族を率いる覚悟。

ざっと今のアシリパに課せられた課題は、男の子だったらどう受け止めるのだろう。

 

「父さん・・・くそっ!父さんを殺した尾形も、父さんを裏切ったキロランケも許さねぇ!!」

的な展開になるんじゃなかろうか。

一応、青年漫画誌に連載されているわけだし。

同じヤンジャンで連載しているキングダムなんて、やれ親友の敵だ天下統一だと燃え上がっている。それはそれで好きなストーリーでもあるし、持ち味なのだが。

要は実際の男女差ではなく、読者がイメージしている男女のキャラクター性は、男は復讐や野心に熱くなりやすい。対して女は冷静に状況を俯瞰で見た上で判断できるし、できることなら戦いは避けたい。

そういった、仮に同じ物語でも主人公の性別が違えば、まったく別の分岐が発生する。

特にゴールデンカムイはバトルもあるが、一番に重きを置いているのはアイヌ民族がどう生き延びていくか、だとかなぜ衰退していくのかという、民族の存続的な問題なので、戦争をして勝ち取るというルートならば、負けた側は勝者に下り、結局は和人に差別された歴史を違う形で再現することになってしまうのだ。

 

ゴールデンカムイで重要なのは、戦って領土を勝ち取ることではない。

いかにして多様性を認め合うか、その方法は果たして存在するのかという物語であると私は思っている。

これはナウシカに近い。

ナウシカも戦いを好まず、自らが先頭に立ち人類とオウムたちとの共存を願う。

よってナウシカは(ここから原作の話になる)クシャナやその父であるウ”王などの共感を得て、新しい共存世界の一歩を踏み出すまでに至った。

戦わない姿勢が、多くの戦争狂の心を掴んだ。

戦わずして限りなく平和に近い、または平和へと向かうような道を探る提案ができるのは、やはり女性キャラならではだと思う。

 

なのでゴールデンカムイナウシカルートに持っていくためには、アシリパは女である必要があったのだろう。

「どうしたら残せるだろうか」

立ち止まって最良の選択はないかと考えることができるのも、女性キャラならではではないかと思う。

もちろん例外もあるし、戦いを好まない男性キャラもいるだろう。碇シンジとかもそうだ。

でも碇シンジは戦いたくない!と駄々をこねているのを、ミサトたちにハッパをかけられる側だった。

ナウシカのように、戦わずして良い道を模索し、周りの者たちにも影響を与え先導していくキャラは、やはり女性の方が見ている側がしっくりくるのだ。

 

現実では性差に対し平等性を良しとされるが、私たちが見ているフィクションの中には、それぞれの性別が与えるイメージとしての役割は大きいだろう。

そのイメージが現実の「男はこうあるべき」「女はこうだ」という重圧で改変せざるを得なくなってしまうのは残念だなと思う。

 

【ゴールデンカムイ妄想・感想回】尾形の正体【222話〜234話】

無料公開期間が過ぎてしまったので、何話だったかは確認できないが、尾形が土方チームに戻ってきた回。

たしかに門倉だか夏太郎だかキラウシだかは「野良尾形が戻ってきた」と言った。

戻ってきたのだ。

野良だと揶揄されるも、戻ってきた。

つまり尾形は己の勝手で自由に土方チームを出入りできる存在として、認識されている。

 

以前のブログで、尾形とキロランケの接点はなんなのか?みたいなことを書いた。

だが私は大きく失念していた。

尾形は知っていた。土方から聞かされていた。パルチザンの存在を。

8巻70話『アムール川から来た男』で、土方は「おそらくのっぺらぼうはアイヌに成りすました極東ロシアのパルチザンだ」と明かす。

そして監獄の外にいるというのっぺらぼうの仲間も「アイヌに成りすましたパルチザンの可能性が高い」と語る。

ここで明らかにキロランケだろ!という後ろ姿が出てくるが、この時点ではおそらく土方以外は誰もキロランケの存在を知らない。

 

だがこのあと夕張でキロランケ率いる杉元チームと土方チームが接触

そして9巻81話では、キロランケは以前村を訪れた男が土方だと答える。この時もしかすると土方はキロランケがのっぺらぼうの仲間であることを勘づいていたかもしれない。

ということは、尾形にキロランケがパルチザンであることを吹聴した可能性もあるわけだ。

網走でキロランケに加担したことは、土方に命令されたから。というのは考えにくい。なぜなら尾形が人に指示されて動くような男とは思えない。

それに夕張でアシリパがうっかり「私の父は」と口を滑らせた時、尾形はすかさずアシリパがのっぺらぼうの娘かと疑った。

タイトルにも書いてあるがあくまで私の妄想だ。考察ではない。

アシリパがのっぺらぼうの娘かもしれない。

・のっぺらぼうを殺したら、不殺の心情を抱くアシリパでも自分を殺すのではないか。それを試したい。

・のっぺらぼうを殺せる立場になるには、キロランケにつくしかない。

・キロランケに「おまえは実はパルチザンではないのか」などと脅し、協力関係を結ぶ。

 

こういった流れがあってもおかしくはないかもしれない。

しつこいようだが私の妄想である。

 

しかしもうひとつ引っかかるのは、北海道に帰還したあと、なぜ土方の元に戻ったのか、だ。

それ以前になぜ茨戸で土方に自分を売り込んだかである。

 

偶然入れ墨の噂を耳にし立ち寄った茨戸で、たまたま見かけた土方たちの側についたほうが得策だと尾形は考えた。

だから入れ墨を手に入れる必要があったのだ。それがあれば土方陣営に加入できるから。

 

ということは、尾形は孤高を気取りながらも、単独行動では不利なことも理解していた。

だから入れ墨という手土産や、相手の弱みに漬け込み協力関係を結ぶなどして必ずどこかの集団の中で行動していた。いわば渡り歩いているのだ。自分に一番都合のいい場所へ都合のいい時に。

 

こいつもしかして、めちゃくちゃ世渡りうまくないか?

 

北海道を離れていた間、けっこうな月日があった。

網走監獄潜入時、ちょうど鮭の収穫時期だった。ということは季節は秋だ。それから流氷が溶け、春になった。半年位経っている。

その間、行方をくらましていたにも関わらず、ふらっと戻ってきてもあたりまえのように受け入れている土方陣営。

家族かよ!!!!

放浪息子が戻ってきたわね、みたいな。

「あら今回は早かったわね」ぐらいの、あっけらかんとした雰囲気、なんだよ。

そのあと白髪だハゲだできゃっきゃしながら白鳥鍋食って。

団欒かよ!!!!

 

というか、右目を失ったせいで狙撃の精度がかなり落ちてしまっているようだが。

撃ち損じたあとの「ははっ」って何?

どんな気持ちで「ははっ」って笑ってんの?

これ、国語の試験だったらせめて4択じゃないと「ははっ」の意味なんて答えられないよ。

普段の生活で「ははっ」って乾いたように笑うことある?つまらない冗談に無理して笑う時しかしないのに、アイデンティティである狙撃ができなくなった時に「ははっ」なんて笑える心境はなんなんだ。

なにが「ははっ」だ。笑ってる場合じゃないだろ!!!

 

杉元たちも、精度のいい狙撃をされたからってすぐに尾形を疑うんじゃないよ。

君ら尾形が大事な右目を失ったことしってるでしょ?この目で見たでしょ?

狙撃=尾形の認識が右目の損失を上回ってるの、すごいな。よかったな尾形、みんな今でも尾形が最高の狙撃手だって思ってくれてるよ。

【ゴールデンカムイ感想回】鶴見と愛戦士とオキシトシンの関係【222話~234話 鶴見・宇佐美編】

鶴見が戦争で目の当たりにした「発砲する振りをする兵士たち」

あたりまえよね。

たとえいくら訓練を積んだって、訓練で人を殺すことはないもの。それがいかに敵国の兵士であっても、相手は人間。罪に問われなくても彼らの中で「人を殺した」という事実には変えられない。

 

しかし鶴見は気づいてしまった。

名前は出さなかった、いやこの当時まだ発見されてたのかどうかも怪しいから知るはずもない、オキシトシンというホルモンの存在を。

 

オキシトシンは、「愛と絆のホルモン」や「幸せホルモン」などと呼ばれるホルモンだ。

このオキシトシンが脳の視床下部から分泌されると、多幸感や他人への信頼感、親密な人間関係を結ぼうとする、不安や恐怖心が減少する。など、とにかくストレス社会で生きる私たちにも嬉しい効果がたくさんなのだ。

 

しかし、このオキシトシンにはダークサイド「負の側面」が存在する。

オキシトシンによって他者への信頼感が増す、絆が絆が強くなる。しかしこれは、自分が仲間だと認めた人間の間にだけ発動する。

家族間であれば家族の絆が深まる。

学校ではクラスメイト同士の団結力が増す。

つまり、ひとつの集団としての絆は強くなるが、それ以外の人間に対してはどうなのだろうか。

 

よく道徳の授業で用いられる「トロッコ実験」を知っているだろうか。

暴走するトロッコから五人を救い出さなければならない。しかしその際、一人の犠牲がどうしても出てしまう。

この実験をオキシトシンを嗅がせた被験者で行った場合、オキシトシンの匂いを嗅いだオランダ人男性は、嗅いでいない被験者に比べ、他国の被験者よりも自国の被験者を優先して助ける傾向があった。と、報告されている。

 

詳しく知りたい人はこれを読め。

「愛情ホルモン」オキシトシンのダークサイド|WIRED.jp

 

同じヤンジャンで連載中の漫画「キングダム」に、弓矢が抜群にうまい兄弟がいる。
兄の方は実践でも人を射つことができたが、弟は人間に対し弓を引くことができなかった。
弟の分も矢を放つ兄は、ついに敵に討たれてしまう。あと一撃で命が危ないというその時、弟が敵兵士に向けて矢を放ち、兄は一命を取り留めた。

兄弟愛が、弟を敵を殺める兵士へと駆り立てたのだ。

 

これが鶴見の言った「他国の兵士を殺せる兵士にするのに必要なのは愛」の真相なのだ。

愛情という絆で結ばれた集団は、その集団を守るためなら相手を殺すことにも罪悪感を抱かなくなる。

なぜなら殺した、殺さなければならなかった正当な理由が自分の中に生まれるからだ。

法律に触れる触れない以前に「自分がこいつを殺したことは正しい行為だった」と思える理由があれば、罪悪感は生まれないのだ。

 

mozu203.hatenadiary.jp

 

補足だが、オキシトシンが分泌される方法のひとつに「感動する」がある。

感動を与えられた瞬間、愛情ホルモンがドッバドバ出てるわけだ。もう、そしたらそこで強い絆が生まれる。

輪の外に攻撃的になれる。それが愛情で生まれた団結力。

 

序盤で鶴見がヒトラーよろしく演説していた「我々の絆はもっと強くなる」

 

脅しでも罰でもなく、愛。愛は裏返せば攻撃的なのだ。

自国を守るため、ルールを守らない人間に対して過剰なまでの制裁を独自に下す。

最近目にしたり耳にしたりすることがあるだろう。

私はこれを「サンクション(制裁)麻薬」と呼んでいる。

集団を乱す者へ制裁を加えることでも、オキシトシンは分泌されるらしい。

 

これに気づいた鶴見は、宇佐美をはじめ鯉登、月島、尾形などを懐柔していく。

愛をもって、絶対的な忠誠心をもった兵士に仕立て上げた。尾形は失敗したが、まああいつはそういう、なんていうか、自由な子だから。

 

網走のあたりから宇佐美に抱いていた怖気は、やっぱり杞憂ではなかったか。

私はなぜか尾形よりも、宇佐美に対し異常な恐怖感をもっていたんだが、やはり胸が冷えるような凶暴性を孕んでいたとは。

しかもそれを表面化させず、ここまで「怖い」と思わせるキャラクターの動かし方。なんなんだ野田サトル。バケモノか。

 

なんだろう。

怒りを抑えながら自分を納得させようとしている仕草が「あ、こいつやべぇやつだ」「でもこういう人、いるな」っていう、やばい人だけど非現実的ではない。

どんなにトチ狂った個性的なキャラクターでも、現実にいそう。と思えてしまう人間味がある。そこがキャラクターの魅力であるんだろう。親近感が沸く・・・いや、親近感はちょっと言いすぎたわ。

 

まとめると、愛は罪悪感に勝つ!愛は勝つ

 

あ、ここまで書き終わって思い出した。

宇佐美の凶悪性を内包した感じ、「こういう人いるわ」じゃなくてあれは「殺し屋イチ」だ。(でも書き直さない。もう眠いから)

【ゴールデンカムイ感想回】強く美しい人【222話~234話 家永・インカラマッ編】

ヤンジャン、GW無料公開ということで、本誌連載閲読から単行本へ切り替わった後から公開されているまでの14話を一気に読んだ。

一気に読んだので、感想の濁流で脳みそが氾濫しそうなので、そのままここにアウトプットすると、今度は私の処理能力が追いつかなくなる。最悪オーバーヒートを起こす。

なのでキャラクターごとに絞って感想を書いていく。

 

まず222話~234話の中でもっとも衝撃的で感情を揺さぶられた、家永とインカラマッに焦点を当ててい・・・。

 

家永ァアァぁァアアァあぁあ!!!!

(すでに感情の防波堤が決壊)

もちろん家永がリタイアしたこともショックだが、230話の頭、腹から血を流して倒れた家永が、黒い服を血のベタによりもっとも憧れ美の完成形と評していた、妊婦のシルエットになっている。この表現よ。

常に美や若さや強さ、最高の自分を作り上げるために罪を犯してきた男(うっかり忘れそうになるがじいさんなんだよな)が、死して完全体へとなったかのような描写。

家永の完成形が自分の身体から出た血液によって形づくられた妊婦の姿だったと、誰が想像できた?

美しさの象徴だと語った妊婦の腹部の曲線が、奇しくも自らの美のために取り込んできた数多の血液で描かれるとは、誰も想像できなかったでしょ?

 

子を宿した母体の曲線美に魅入られ、子を生んだ母親に聖母のような理想を抱いたまま、それを目にすることは叶わなかった家永少年。

見たことがないから、彼の中では永遠に完成することのない理想像として胸の中にあったのだ。

しかそれは、家永がどんなに他人から欲しいものを取り込もうが、それによって実年齢にそぐわない美貌を手に入れても、絶対に得られないもの。

それが、それがだよ。

何十年と胸中に抱き続けてきた理想像を守るために命を賭したがために、その姿で最期を迎えたってアンタ・・・。

 

あんまりこの言葉は使いたくはないんだけど、もう言語野の仕組み上、これしか出てこない。

 

エモすぎるだろ!!!!

 

完璧な母親を求めて三千里(どころではない)

どんなに凶悪犯だったとしても、どんなに無慈悲に、自分を完璧にするために人を殺めたとしても、生きてそこへはたどり着けなかった。

きっと、いや当然家永もそれはわかっていたはずだ。

 

この家永の結末は、彼が完璧を求め続けた結果として「よかったね」と言ってあげるべきなのだろうか。

でも「インカラマッさんが産むのを手伝いたい」と言った家永の願いは叶えられなかったね。

もし家永がインカラマッと谷垣の子供を取り上げていたら、どんな感動を彼に与えていたのだろうか。

目にすることが叶わなかった、赤子を抱いた母を重ねることができたのだろうか。

 

今思えば、アシリパの目を狙った家永に、百年後くらいにカラコンというとっても便利なものが発明されてると教えてあげたかった。

あとね、「ヒトプラセンタ」っていうサプリも誕生するの。わざわざ胎盤を食べなくてもいいのよ。海外からネットで個人輸入できるの。便利な時代でしょう?

私は怖くて手を出せなかったけど。

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インカラマッの出産だけど、アイヌ文化を継承している人も少ない中で、さらに産婆経験のある方のお話を取材できてたってことに驚いた。

これ、かなり貴重なシーンだと思う。

 

現在の日本のお産って、アイヌのように男女で取り出し方が違うって、聞いたことがないけど、これにはどんな意味があるんだろう。

もちろん作中に書かれている「長生きできるかどうか」にまつわる根拠があるのではないかと、これまでのアイヌ文化を見ていると感じてしまうのだ。

アイヌ文化には、非科学的なまじないのように見えて、実は合理的な部分が多い。

イオマンテにしても、小熊を敢えて育てて大きくするのは、そっちのほうが食べられる肉の量も多い。

そういった合理的な「生きる知恵」が、アイヌ文化の特徴であるような、ほかの文化にも見られることなのかはここでは言及しないでおく。(というかそこまで調べる時間がないのが正直なところなんだが)

 

現代の産婆の知識は知らんが、綿で肛門を押さえ(おそらくいきんで便が排出されるのを防ぐ役目だと思うが)性別によって胎児を回転させながら娩出というのは、へその緒の絡まり防止のような気がする。

 

それにしても、月島に神通力を行った際に見えたものはなんだったのだろうか。

月島に伝えることを躊躇う様子がないところを見ると、どこかで生きていると思いたい。だからこそ月島は聞かない選択を選んだのかもしれない。

もし、すでに亡くなっているのであれば、インカラマッはもっと悲しげな表情を見せたはずだ。そうではないのだとすると、どこかでいご草ちゃんは生きている。であれば、会いに行きたくなってしまう。

月島はそれを恐れたのかもしれない。

会いたいと願ってしまう自分の心を。

 

それにしれも、谷垣、インカラマッ、チカパシの、その場しのぎのはずだった擬似家族が、それぞれほんとうの家族になれたことは、この漫画の中でものすごく大きな意味があるだろう。

 

親子二代に渡って懐柔された兵士たち。

親の希望を背負わされた子供。

家族を亡くした者。

この漫画で、初めて血のつながりに希望を持たせた回だったと思う。

 

しかし一発で仕込んでしまうとは。

きっとラッコちゃん(勝手に今つけた)は強い子になるぞ!!

【尾形深掘り回】罪悪感の正体

尾形がアシリパに向けて口にした「自分の中に殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

たしかに私もそうだと思う。

たとえば殺人を犯す際、様々な理由があると思うが、もう殺したいほど憎い相手を殺した場合、罪悪感を抱くのだろうか。

「殺したいほど憎い相手」これは例えば、自分の身内や大切な人を殺された復讐だったり、自分を限界まで苦しめた相手に対する報復の類が動機だったとすれば、罪悪感どころか「してやったり」と思うのではないか。

 

では尾形が口にした「罪悪感」の正体はどういった感情に起因するものなのか。

 

先日、罪悪感はに関するおもしろい意見を耳にした。


岡田斗司夫ゼミ#326(2020.3.15)「最強の人間関係操作法、教えます」 完全版 メンバー限定 (3/15~5/24 公開)

たしか有料メンバー内での発言だった気がしたので、気になる方はメンバー登録してみてくれ。

 

簡単にこの放送で触れられていた罪悪感についてを説明すると、罪悪感とは次にその行為を行う際の前払いなのだそうだ。

 

この動画では視聴者からの人生相談にも回答しているのだが、ついアンチコメントをしてしまい、後日罪悪感に苛まれる相談者に対し、岡田さんは「罪悪感は次にアンチコメントをする際の前払い」だと答えていた。

 

もっと身近な罪悪感について例えると、寝る前にどうしても小腹がすいてお菓子なりを食べてしまったとしよう。

食べている最中は欲求が満たされているが、食べ終わったあと、もしくは翌朝に罪悪感に襲われ自己嫌悪に陥った。という経験はないだろうか。

しかしこの翌朝に罪悪感を抱くのなら、夜中にお菓子など食べなければいいのだ。

しかしその瞬間、夜中にお菓子を食べたい!という衝動に抗うことができなかった。翌朝に襲われる罪悪感のことなど、この時は頭にはないのだ。

そして罪悪感の前払いというのは、次回もあるかもしれない就寝前に何かを食べてしまう行為への、罪の前払いなのだ。

ここで罪悪感で自己嫌悪するという行為は、未来の欲求に抗えなかった自分に対しての謝罪を前もって行っている、ということになる。

 

そして尾形の言う「人を殺した罪悪感」というのも、殺した瞬間に抱くものではなく、殺した後に訪れるものと解釈していいと思う。

もっと単純に言えば後悔である。

おそらく尾形曰く、自分がその時、そうすることが最善だと思って行った行動には、後悔など存在するはずがない。むしろ、自分がするべき正しい行いとして手を下したことに、なぜ後悔なんぞする必要があるのか。

こういった思考回路なのかもしれない。

 

もしも尾形が、深夜に小腹がすいてカップラーメンを食べたとしても、翌朝、罪悪感に苛まれることはないだろう。

あの時どうしても食べたいと思ったから食べた。

彼の中にあるのは、自分の行動に対する責任を放棄しない。という、一見すれば信念のようなものすら感じる。

 

しかし人を殺すというのは、夜中にカップラーメンを食べる背徳感とは規模が違いすぎる。

だが尾形にとっては、深夜のカップラーメンだろうが、人を殺めることだろうが、どっちにしろ自分の欲求や判断に対して後悔の念を抱かない。つまりそれはあの時俺が正しいと思ってやったこと。として、「なぜ俺はあの時あんなことを・・・」などと、振り返り反省する思考自体がないのかもしれない。

 

ここで前途した、罪悪感は前払いという話だが、尾形は自分の行為に対し、常にそれは正しいことだと一貫しているのだ。

だからもし次に同じ行為をしてしまったとしても、後悔を前払いする必要がないのだ。だって「あ~またやってしまった」と後悔することがないのだから。

 

要約すると、尾形の中では人を殺すことも、その時の最善の判断なのだ。

しかし、進撃の巨人でよく問答されていたように、その時の判断が正しかったかどうかは、未来でしか証明されないのだ。

翌日は後悔するかもしれないが、長い目で見たとき、一年後や数年後の未来で「あの時の判断は間違っていなかった」と思わされることは、日常でもある話だ。

 

罪悪感を抱かないということは、自分の言動が一貫して正しいと信じている。もしくは自分の言動に責任を持っている場合のどちらかではないだろうかと思う。

 

「殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

は、確固とした信念、いわば、それは自分の正義だと思っていなければ言えない言葉かもしれない。

尾形は、自分の行動に迷いがなく、また他社の理念には影響されない人間なのだろう。

自分に疑いがない男。

常に正しさが揺るがない男。

そして尾形の中にある「正しさ」は、万人にも共通するものだと信じたいのだ。

だから「みんな俺と同じはずだ」という発言が生まれる。その言葉をわざわざ他人に向けるのは、「同じであってほしい」という願いなのかもしれない。

尾形はずっと、他人や社会に理解されないことに孤独を感じていたのか。自分が間違っていると感じた瞬間がどこかにあって、その違和感に彼はどんな思いで過ごしてきたのだろうか。

 

【追記】

おもしろい話を思いついたので追記。

脳科学実験のひとつで、巨大な脳波検知器みたいなのに入るやつがあるんだが(説明が雑ですまんが気になる人はググってくれ)被検体は装置の中に入り、研究者から「好きなタイミングで左右どちらかのスイッチを押してください」と言われる。

すると被検体は自分のタイミングで左右どちらかのスイッチを押す。この時仮に右のスイッチを押したとしよう。

しかし被検体が「右を押そう!」と思う前、つまり被検体が右のスイッチを押す前から、研究者には被検体が右のスイッチを押すことがわかっているのだ。

 

この研究から、人間は何か行動を起こす以前に(おそらく一秒にも満たない時間)脳が指令を下しているのだとわかる。

「喉が渇いたな」と水を飲む以前に、すでに脳が我々に水を飲めと指令を出しているのだ。

ではこの「喉が渇いたな」という、水を飲むために用意された思考はなんなのか。

水を飲むための後付けの理由なのだ。

そう、人間は何らかの行動をとった際、自分自身に理由を与えている。

 

このことを尾形の言う「人を殺すことへの罪悪感」に当てはめると、戦時下で敵兵士を殺す際、引鉄を引く瞬間、軍刀を振るう瞬間、「敵国の兵士だから殺さなければいけない」「今殺さなければ自分が死ぬ」といった理由を発生させる。

そういった行動をとった自分への言い訳だ。

そして罪悪感が生じるのは、殺すに値する理由を自分自身に与えておきながらも、「それはほんとうに正しい選択だったのか」という納得できない感情が発生するからなのだろう。

自分の行動を正当化させる理由と、客観的に考えた場合の善悪。この双方が入り混じることでジレンマが生じる。

これが罪悪感の正体なのかもしれない。

 

しかし尾形に罪悪感がないとすれば、尾形の中には行動に対する理由さえあればそれ以外の感情が入り込むことがないのだ。

要するに客観的に捉えた際の善悪というのは、世間や社会から見た時に、それは正しく見えたかどうかに起因する。とすれば、尾形には社会やもっと細分化すると他人からの善悪のジャッジはどうだっていいのだ。

 

なぜ人は世間や社会の中において自分の行動の正当性を考えるのかは、私たちは社会の一員であるがゆえに、この世界で起こした行動には多かれ少なかれ責任を持たねばならないからだ。

だが、尾形には社会やそれによって作られた倫理観に責任を持たない。

これはサイコパスの特徴のひとつでもある。

尾形サイコパス論についてはまた別の機会に詳しく掘り下げていこうと思うので、この話はここまでにする。

 

全然関係ないんだが、今YJ半年間無料後悔やってるじゃん?

私は本誌連載を読まなくなった11/28号も無料部分に入ってるわけよ。

無料公開分の三月末まで、休載をカウントしなければ16話ある。

読むべきか。

読んだら感情の大洪水で脳みそが氾濫を起こし、睡眠時間を削ってここに氾濫した感情の水を流水せねばならなくなるんだが・・・。

16話かー。

私の体力と時間が今、リモート会議してる。

 

【ゴールデンカムイ妄想回】勇作とプロパガンダ

プロパガンダと聞くと、だいたいの人が悪いイメージを持っていると思う。

他人を説き伏せて洗脳する。という意味では、恐れるに値する手法なのだが、そもそもプロパガンダは私たちが生活する上でも必要なものなのだ。

 

いつものように「専門用語、ざっくり解説」を行うと、プロパガンダは相手に理解してもらうための手段なのだ。もっと簡単に言えばプレゼンだ。

このブログも、感想以外の深堀回などはプロパガンダに値するかもしれない。

こういう見方もあるという、読者に対する訴えでもあるし、それに共感や理解を示した人がいたならば、プロパガンダは成功と言えよう。

 

話を戻して、勇作がなぜプロパガンダかと思ったのかは、他の兵士を自らが偶像になり先導し、士気を高めることに成功したことによるものだ。

このプロパガンダに勇作はほとんど関与していない。だが、弾に当たらぬ神話の童貞を貫き、剣を抜くこともせず、およそ30kgもある旗を担いで先導したことは、他の兵士に自分を信用させるための手段としてはプロパガンダとも言えよう。

 

プロパガンダには大きく分けて2種類ある。

ひとつは、感情的プロパガンダ

もうひとつは、理性的プロパガンダ。である。

 

勇作の場合はどちらかと言うと感情的プロパガンダに近いと思われる。

理性的プロパガンダは、感情の首輪である理性を緩めることで成立するが、そもそも戦争に参加している時点で理性というものはほとんど無いと思われる。

理屈抜きに、ただ敵の兵士をひとりでも多く殺す。その目的のためだけに動いているのなら、もはや兵士はすでに国にプロパガンダされ、自らの思考で判断してはいない。

ただ、敵兵士を殺さなければいけない。それだけなのだ。

そして感情を更に躍動させるために必要なのは、理性的なうったえではなく感情なのだ。

 

勇作は自らが偶像もしくは軍神となり、極端な言葉を使うと洗脳したのだ。

「勇作殿がいれば弾に当たらない」

そんなこと、現実的にあるはずはないと、今の私たちなら理解できる。

勇作がfateのマシュのようなどデカい盾でも持っていない限り、そんな発言が出てくるはずはないのだ。

そう考えると、勇作は兵士のプロパガンダとして仕立てあげられ、自らもその責務を全うしなければいけない存在なんだと認識してしまったのではないのか。

 

過去回想シーンで勇作は尾形に「自分に旗手が務まるのか」などと、弱音を吐いていた。

あれは敵の銃弾の中を先行することへの恐怖ではなく、自分が兵士を洗脳できるに値する人物であるのかに対する弱音だと思う。

自分の行動によって、兵士は士気を高めてくれるのか。もし自分が旗手として兵士たちに認められぬ存在であれば、兵士たちを死線へ誘導することなどできない。そういう不安からであろう。

 

しかし勇作は見事、兵士たちに偶像として崇められることに成功した。

それにより、偶然にも勇作のそばにいた兵士が弾に当たらず進軍することができた。

要は勇作は兵士たちの感情論を強化できたのだ。感情により行動している兵士たちに、より強い感情を与える存在となった。

 

勇作は、プロパガンダに仕立てあげられ、その結果、プロパガンダとして成功した。

一種の宗教じみた行いにも見えるが、これがおそらく当時の「戦争」というのもだったのであろう。

 

戦うことを説得により理解させ、個々の判断を揺るがせる、または思考を停止させることでより強い兵士を作り出す。

国民が一丸となって「この戦争で自国は勝利しなければいけない」と思い込むことで、勝利はの道は拓かれる。

だが、多くの者は戦争に勝つと何が起こるのか。までは深く理解していないだろう。

 

それは二百三高地での戦いで勝利はしたものの、自国の兵士の遺体も回収されず、賠償金も得られず、結果、第七師団は何も得られなかった。それにより、鶴見中尉による新たなプロパガンダが生まれる結果となった。

不満感情の飽和に火をつけた鶴見中尉。

対して理性的に民族の存続を説くアシリパ

人の上に立つ者としての相反するプロパガンダは、果たしてどういった着地点を描いてくれるのだろうか。